かくして
海は始まった。
02
赤い髪の男は、頑なに自身の名を名乗らなかった。
話をする中でそれとなく聞き出そうとしてみても、のらりくらりと躱される。アオギリは話術には長けている方だと自負していたが、目の前の男も相当だ。
名乗れない理由でもあるのだろうか。話しかけてきたのは赤い男の方からだ、他人との接触に警戒するような人物には見えないが。
「……貴方はなぜここに?」
背後に隠し持っているモンスターボールに手をかけたまま、アオギリは彼と談笑を続けた。これだけ分かりやすい容姿だ、名前が分からずともこの男について情報は探れば多少は集まるだろう。その正確性を増すためにも、今のうちに出来る限り情報を引き出しておきたい。……あそこまで完璧に気配を消して近付くような男が、真っ当な職に就いているとは考え難いからだ。
(裏で動きすぎたか?)
アクア団の結成のためにしばらくのあいだ裏の世界に足を踏み入れていたが、踏み込みすぎたのかもしれない。細心の注意を払ったつもりだが、裏のルールは外からでは分からないものだ、意図せずルールに干渉してしまった可能性もある。
アオギリはモンスターボールを握る手に力をこめた。――いざというときには、いつでも目の前の男を殺すことができるように。
アオギリの警戒心に気付いているのかいないのか、赤い髪の男はけらけらと笑いながら答える。
「オレか? 酔い覚ましだよ、ここは風が冷たくていい。そういうお前は?」
「考えが煮詰まっていまして。頭を冷やしに来ました」
「ほー……つまりはあれか、おんなじような理由か」
「――まあ、そうなります……ね」
酔っ払いの戯言と一緒にするな、と思いはしたが、喉まで出かかったその言葉をかろうじて飲み込む。目の前の彼は裏の世界を知るであろう人物だ、下手に刺激を与えるのは得策ではない。彼がアオギリのことをどこまで知っているか分からないし、何を目的にアオギリに話しかけてきたのかも現状分からないのだ。
まさか本当に酔い覚ましに来たわけではないだろう、それにしては顔の赤みも酒の匂いも足りない。彼は酔ってはいるようだが、酒に呑まれてはいない。
(どうしたものか……)
アクア団の拠点に関する案は既に固まっている。ならばここに留まる理由もないのだが、かといって、このまま黙って彼に背を向けることには抵抗があった。敵意は感じないが、いつ牙を剥くともしれない相手に無防備に背中をさらすわけにもいかない。
そしてなにより、彼が語る話はアオギリにとって興味深いものが多かったのだ。……特に、このホウエン地方に残された伝承に関する話は。
(だが、そろそろ戻らねば)
アオギリには時間が足りないのだ、圧倒的に。カイオーガのいる場所が分からないどころか、まだ活動するための拠点すらない状態なのだから。ここで道草を食っている場合ではない。生きている間にカイオーガを見つけられるとも限らない。
目の前の男に背を向けることに躊躇いはあるが、ここでいつまでも話していても埒が明かないだろう。そう考え、アオギリは分かりやすく別れの言葉を切り出した。
「では、私はそろそろお暇を」
そう言って赤い髪の男に背を向けた、その時だった。
「おっと」
「!」
背後から聞こえたモンスターボールの開閉音と、呑気な男の声。アオギリは振り返りざまに自身のモンスターボールからトドゼルガを繰り出し、男と向き合った。そして、笑う赤い男を睨めつける。
「何のつもりです?」
「何ってお前、『目と目があったらポケモン勝負!』だろ?」
赤い髪の男は不敵に笑い、持っていた酒瓶を砂浜に投げ捨てた。男を守るように立ち塞がるのは、『ふんかポケモン』、バクーダである。赤い男が繰り出すポケモンとしてはおあつらえ向きだろう。
(ほのお、じめん。……タイプ相性では勝っている)
そこまで考えて、アオギリは小さく首を横に振った。そもそも、戦う理由がアオギリにはないのである。
男が最初からアオギリと戦いにきたのであれば話は別だが、お互いのポケモンを出し合い臨戦態勢であるはずの今でさえ、彼からは敵意も悪意も感じられない。純粋にただ戦いたいだけに見える。
堅気の人間でないことはまず間違いないのだが、最初にアオギリが疑ったような『彼が裏社会からの刺客である』という線は消えたと考えていいだろう。アオギリは分かりやすく困ったように眉根を寄せて口を開いた。
「私はもう戻らなければいけませんので……」
「そう言うなよ」
ぐぐ、とバクーダがその四本の足に力を込めた様子を受けて、トドゼルガが前傾体勢になる。――いつでも目の前の敵に飛びかかることができるように。
「久しぶりに強いヤツとやりてえんだ、相手してくれよ」
「……私は一介のトレーナーに過ぎません。貴方の求めるような強さはありませんよ」
「違ぇな」
アオギリの謙遜を、男は間髪入れずに斬り捨てる。
「お前、強いだろ?」
「……なぜそう思うのです」
「ん? 勘だよ、勘」
からりと笑ってそう答える赤髪の男の瞳は、まったく笑っていない。それに気付いたアオギリは、この戦いがもはや避けられないものであることを悟った。