絶対零度の運命論

05

 ――ばちん、とアオギリの頬を叩くものがあった。
 凍えて体の感覚を失いつつあったアオギリは、かろうじて感じることのできた痛みに目を開ける。そして目を開けたことで、一瞬とはいえ自分が意識を飛ばしていたことに気が付いた。
 震える体をなんとか動かして、アオギリは痛みの走る左頬に手を当てる。叩かれたことでわずかに熱をもったそこを撫でながらそちらに目を向けると、アオギリのすぐ側に、白い体毛があった。丸みを帯びた体に、これまた丸みを帯びた小さな手が2つある。きっとそのどちらかに頬を引っ叩かれたのだ。
 そのまま視線を上へ、上へとあげていけば、青い体毛が見えた。そして、そのなかには白い水玉模様がある。
 朧気な意識のなかで、アオギリは記憶を手繰る。そんなことよりも、早くこの洞窟から出た方がいいと分かっているのに、アオギリの体はまだ、言うことをきいてくれなかった。
 そして、アオギリはそのポケモンが、タマザラシと呼ばれていることを思い出した。芋づる式に、図鑑を読んだ記憶が呼び起こされていく。
 ――1匹のトドゼルガをボスとして作られる群れ。タマザラシはその群れの中で育ち、群れの危機を察知すれば、直ちにボスであるトドゼルガに知らせる。トドグラーにボールのように遊ばれているような光景が見られるが、それは健康診断のようなものだとする説が有力で――
 ばちん、と再びアオギリの頬が打たれた。今度は逆の頬だった。
 咄嗟にアオギリの口から飛び出た悲鳴が反響する。慌ててアオギリは両手で口を塞いだが、既に出てしまった声が戻ってくるようなことがあるはずもない。反響する音はどんどん洞窟の奥へと進んでいく。――群れが、来るかもしれない。
 トドゼルガはきっと1匹ではない。ボスが1匹なだけで、たとえばボスの番などは、性別は違えどトドゼルガのはずで――メスだとしても、幼いアオギリに勝てる道理はない。

 起きなければ。
 立たなければ、歩かなければ、走らなければ。
 ――それができなければ、そのときは、今度こそ、自分は。

 もはや音が出ることも構わずに、アオギリは懸命に体を動かした。もう悲鳴はあげてしまったのだ、ならば音を出さないようにゆっくり動くよりも、早くここを出ることを優先した方がいい。
 アオギリの動きに合わせて、ぱきんと何かが割れる音がする。痛みはない。きっと凍っていた衣類が動きに合わせて割れたのだと、そう思うことにした。
 徐々にアオギリの視界が滲んでいく。つんと鼻の奥が痛くなる。寒い空気を吸い込んでいるせいではない。滲んでいく視界が、すべての答えだった。
 アオギリの意識がようやく、今の自分が置かれている、絶望的な現状を理解しきったのだ。
 滲む視界を見たくないとばかりに、アオギリは自分の腕を目元に押さえつける。それでも抑えきれない嗚咽を零しながら、アオギリは立ち上がる。ずりずりと足を引きずって、なんとか歩を進めていく。
 周囲を見渡したとき、アオギリが進める道はふたつあった。
 ひとつは、トドゼルガが倒れている方にあった。
 もうひとつは、トドゼルガが倒れている位置とは逆の方にあった。――アオギリは、迷うことなくその道を進んだ。
 当然、後者の道にはトドゼルガがいないから、という理由もある。しかし、それだけではなかった。
 タマザラシが、前者の道を塞ぐように、アオギリの足元にまとわりついていたのだ。
 まるで『あっちに行け』とでもいっているかのように、タマザラシはその丸い体をアオギリの足に押しつけるのだ。
 アオギリは、それに押されるがままに歩いた。
 アオギリの歩みが止まる度に、タマザラシがその小さな手で、べちべちと彼の足を叩いた。
 歩いていけばいくほどに、洞窟の壁を覆っている氷が薄く、少なくなっていった。――前から吹いてくる風に、温度を感じた。
 それに気付いたときには、もうアオギリは走り出していた。
 痛い、寒い、走れない――そう、ずっとそう思っていたのに。
 視界の先に、強い光を見た。洞窟の奥に進んでいるなら、あんなに白い光が見えるはずがないのだ。吹いてくる風が、こんなにぬるいはずがないのだ。
 最後の気力を振り絞り、アオギリは、光の中へと飛び込んだ。
 強い光に目が眩み、アオギリは咄嗟に目を閉じる。それでも、アオギリは理解した、理解できた。――ここは、外だと。
 だって、あついのだ。熱いのだ。――暑いのだ。
 そして足元にある、柔らかくも少し固さのあるその感触は、船に乗る前に散々走り回った、あの砂浜と同じだったのだ。
 ふっと、アオギリの足から力が抜けた。正真正銘、アオギリの気力が尽きた瞬間だった。
 アオギリは目を閉じたまま、ぱたりと横たわった。腕に、足に、頬に当たる地面は、あの凍った岩肌ではない。さらさらと指の隙間から零れていくものは、間違いなく砂だった。
 アオギリは、薄く目を開ける。予想通り、アオギリは砂浜の上にいた。自分の手が、砂浜の砂を力いっぱいに掴んでいるのが見えた。
 ゆっくりと体を動かして、仰向けになる。空の高いところに、太陽が浮かんでいた。夏になる度に疎ましかったそれが、まさかこんなにも自分を安心させるものになるなんて、思ってもいなかった。
 今度こそ、アオギリの目から、涙がこぼれた。
 声は出なかった。感じているものがすべて、涙に変わっているような、そんな感覚だった。おかしな泣き方をしているせいか、走ったときよりもずっと息が切れた。
 それもなんとか落ち着きを見せはじめた頃、ようやくアオギリには周囲を見渡す余裕ができた。酸欠気味でぼんやりとしている思考のなか、考えられることは多くない。ここはどこなのかだとか、家族はどこなのかだとか――
 そこまで考えたところで、ほんのりと冷たい風が、アオギリの頬を叩いた。
 そして、思い出した。――あのタマザラシは?
 出口までの道を案内してくれたのであろう、あのタマザラシは――

 なんとか半身を起こして、振り返った先。
 あのタマザラシの姿は、そこになかった。