絶対零度の運命論

04

 まだ幼いアオギリの頭脳は、目の前で起こった光景を前に、限界を迎えようとしていた。情報の処理が追いつかなかった。
 視界の端から、とんでもない勢いで飛んできた――転がりこんできた、丸いもの。
 それは、今まさにアオギリへと牙を突き立てようとしていたトドゼルガの頭部に吸い込まれるようにぶつかり、その巨体を大きく揺るがせるに至った。
 呻き声がふたつ、静かな洞窟に響いた。
 ひとつは、凄まじい勢いで頭を揺らされたトドゼルガのものだ。横たわるアオギリの頭上で、トドゼルガの巨体が右に左に、ふらふらと揺れている。
 そしてもうひとつは、トドゼルガの頭へとぶつかった、丸いものから発されたものだった。――トドゼルガのような分かりやすい呻き声ではなかったものの、その声はたしかに、か細く鳴いていた。
 やがて、トドゼルガの体が大きく傾き、アオギリの視界から姿を消した。その後すぐに地面が大きく揺れて、アオギリは思わず体を震わせる。寒さによるものでも恐怖によるものでもない――驚きによる震えであった。
 そっと、視線だけを左右に動かせば、アオギリから見て右側に、トドゼルガの牙らしきものが見えた。――戦闘不能だ。
 その巨体が呼吸で波打っているのがかろうじて見えたので、おそらく死んではいない。しかし意識を失っているのなら、アオギリの命を脅かす存在はいなくなったも同義だった。少なくとも、目に見える脅威は消え去った。
 それをなんとか認識して、アオギリはようやく、安堵の息を吐くことができた。真っ白な息が、アオギリの視界を埋め尽くす。
 ――そして、彼の意識は急速に遠のいていった。
 死さえ覚悟する窮地から脱したという安心感と、周囲を取り巻く極寒の世界は、幼いアオギリの意識を奪うには十分すぎた。抗おうにも、もう彼の気力は限界だった。
 ぱた、とアオギリの瞳は閉じられた。なんでもないように、ただ自室のベッドでひと眠りするだけなのだとでもいうように、ひどく軽い動作でもって、その目は閉じられた。アオギリ自身でさえ、目を閉じたことに気付いていなかった。
 気付いていたのは、アオギリの頭上で未だに呻いていた、丸いものだけだった。


***


「昔――群れのボスであるトドゼルガを攻撃した、命知らずのタマザラシがいませんでしたか?」

 所詮ポケモンは、人間の言葉など理解できない――などと、アオギリは思わない。
 ポケモンが人間の言葉を、理解できないはずがないのだ。もしも理解できないならば、ポケモンバトルなどという文化は成立しないのだから。
 そうはいっても、生まれた時から人間と共に暮らしているポケモンと、街から遠く離れた洞窟で暮らすポケモンとでは、違う種族である人間の言葉に対する理解力というものに差が出てくる。
 アオギリは、つとめてゆっくりと、彼らに語りかけた。

「私は、そのタマザラシに会うために、ここまで来ました」

 語るアオギリの声に、群れがざわめきだす。もしこれが『人間の群れ』ならば、一体誰のことだだの、そもそもなんの話だだのと囁いていることだろう。そしておそらくは、このポケモン達も同じようなことを確認しあっているに違いない。
 ただ1匹――群れのボスであるトドゼルガだけが、その喧騒には加わらずに、アオギリを見据えていた。

「群れのボスが、変わりましたね」

 アオギリもまた、同じようにトドゼルガを見た。――金色の瞳。
 侵入者であるアオギリに対する敵意はあれど、決して殺意はないその瞳は、あの日には無かったものだ。

「何度変わったかは分かりませんが……貴方は、あの日のトドゼルガではないでしょう?」

 そう言いながら、アオギリは自身の腰に装備していたホルダーに手を伸ばす。――そこに収納している、モンスターボールに手をかけた。

「私を襲ったトドゼルガは、もっと攻撃的で――貴方のように、『威嚇よりも観察を優先する』ことはしなかった」

 あの日のトドゼルガが精神的に成長した、とも考えられる。しかしアオギリは、その可能性は限りなく低いとみていた。
 野生ポケモンの群れにおいて、ボスが選ばれる要因はいくつかある。そしてそのなかで最も重要とされることが多いのは、やはり強さだ。ボスが弱くては、群れはまとまらない。他の群れから仲間を守ることができない。
 そしてあの日、幼いアオギリを襲ったトドゼルガは、まさしく強さによって選ばれたはずだ。氷塊さえ砕くとされるその牙はたしかに欠けていたが、それは欠けるほどの争いを、幾度となく繰り返してきたことの証左である。ただ壁にぶつけた程度で、転んだ程度で欠けるようなものではないからだ。
 そしてなにより、あのトドゼルガは、人間という存在が有する危険性を理解していた。あの日のアオギリを捨て置くのではなく、殺すという判断をしたことからも分かる。
 たとえ年月が経ち、精神的に成長したのだとしても――人間に対する殺意は、きっと変わらない。人間に殺意を抱くだけの経験をしたのなら、きっと、変えられない。
 しかし、今のトドゼルガにその気配はない。敵意はある。アオギリを排除し、群れを守ろうとする意思がある。
 それでも、殺意はない。もしもアオギリが、何もせずに洞窟を出ていくのなら――このトドゼルガも同じように、何もしないまま見送るのだろう。
 その違いを、分からないアオギリではなかった。

「――あの日よりも、大きくなったようで」

 アオギリは、この群れに出会ったときと同じ言葉を呟いた。
 トドゼルガを見据えたままに、呟いた。