絶対零度の運命論

02

 洞窟の奥へと歩みを進めれば進めるほどに、気温が下がっていくのをアオギリは感じていた。当然といえば当然の話ではあるのだが、それでもアオギリは、あの日よりはずっとあたたかい――むしろ、あついとさえ思っていた。
 それは、あの日よりも着込んでいるからか。
 昨今、世界を賑わせている気候変動とやらに、この洞窟も巻き込まれているのか。
 それとも――彼の胸の内に燻り続けている感情が、そう思わせているだけなのか。
 ほどなくして、アオギリは目的の場所へと辿り着いた。――より正確に言うならば、辿り着いたのではなく、『向こうから来た』。
 侵入者を、排除するために。

「……あの日よりも、大きくなったようで」

 アオギリの目の前に現れたのは、トドゼルガの群れだった。――あの日に見たときよりも、群れを構成するポケモンの数が増えていた。
 トドゼルガの数も、トドグラーの数も、タマザラシの数も。
 そしてその群れの先頭に雄々しく存在する、ひときわ大きいトドゼルガこそが、そのボスなのだろう。侵入者であるアオギリを睨めつける視線は、いくつもの戦闘を、死の淵を潜り抜けてきた者がするそれであった。
(懐かしい、とは――こういうことをいうのだろうな)
 アオギリに向けられているのは、明確な敵意である。
 少しでもアオギリが気を抜けば、あのトドゼルガはアオギリを襲うだろう。そしてそれに追従するように、群れも動くだろう。この場が膠着しているのはひとえに、アオギリが油断していないからだ。群れのボスは、それを目敏く感じとり、アオギリの様子を窺っている。
 その様子を見て、やはりアオギリは、懐かしいと思うのだ。――あの日、幼かったアオギリはそんな視線に見下ろされた状態で、目を覚ましたのだから。


***


 ずぶ濡れになった体でこのほらあなに入ったならば当然、体は凍え始める。そのうえ着ている服が半袖ともなれば、まだ幼いかったアオギリが、目を覚ますことができただけでも奇跡だったといえるだろう。
 体のそこかしこが凍りはじめているなか、かろうじて開けることのできた瞳が、最初に目にしたもの――それが、幼いアオギリへと向けられている、あの視線だった。
 侵入者を排除せんとする金色の瞳が、恐ろしいほどに爛々とした輝きを放ちながら、幼いアオギリを見下ろしていた。――度を超えた恐怖は、人から悲鳴さえも奪い取るのだと知った。
 アオギリはただ、その瞳を見つめることしかできなかった。温まろうとする体が、その瞳に恐怖する体が、本能的に震えはするものの、それ以外にできることなど何もなかった。
 何をしても、何をしなくても、ただアオギリがそこにいる――それだけで、目の前の存在を刺激しているのだと、分かってしまった。
 生まれて初めて見た走馬灯が、幼いアオギリに言う。――『ポケモンは、怖い生き物です』と。
 どこかの地方の、昔の学者が残した言葉。穏やかな海を、船の上から覗き込んでいたときには、決して思わなかったもの。――これが、あの時代の、学者の、人々の、感じていたもの。
 しばらくして、幼いアオギリを見下ろしていたトドゼルガはようやく、この小さな存在が何かを企んで横たわったままでいるのではなく、『ただ呆然と横たわることしかできない弱者』なのだと気付いたようだった。
 ならば、トドゼルガにとってアオギリという存在は、もはや警戒する必要もないものである。自分の身さえも守れない、身動きもできないその小さな存在は、自然界においては、そのまま捨て置かれるはずのものだった。
 しかし、トドゼルガはそうしなかった。――ゆっくりと、その口が開かれていく。
 おそらく、そのトドゼルガは知っていたのだろう。人間という存在の危険性を。アオギリを生きて帰した場合に、起きうる事態を。
 そして、ついにその口は大きく開かれた。剥き出しの牙から滴る唾液が、アオギリの頬をかすめる。
 それを、幼いアオギリはただ、見ていた。目の前の景色をただ眺めること、そして、『ああ、牙が少し欠けているな』――などという、現実逃避というほかない思考をめぐらせることだけが、今のアオギリに許されたものだった。
 牙を振り下ろさんと、トドゼルガの背が仰け反る。目覚めたときから視界にあった金色の瞳が、見えなくなる。
 あれをもう一度目にしたときが、その瞳の色を見たときが、きっとすべての終わりなのだ――涙も凍る極寒の洞窟で、ひとつの命が人知れず消えようとしていた、そのときだった。
 ――視界の端から飛んできた何かが、トドゼルガの巨体を揺らがせたのは。