さよならを待つ屍

02

 ドクター・キリコの噂を聞かなくなったことに気付いたのは、今から二年前のことだった。
 気付いた理由はなんであったか。雄大な景色が一面、銀世界になっていたときにあの男の髪色を思い出したときか。百合の花を見て、あの男の妹を思い出したときか。柔く降り注ぐ青い月の光に、あの男の瞳を思い出したときか。――きっとそのどれもが正しい。
 ブラック・ジャックは、事ある毎にキリコを思い出していた。だからキリコの噂を聞かなくなったことに気付いた時期と、彼が実際に消息を絶った時期は、そこまで離れていないと彼は考えている。
 けれど彼の噂が聞こえなくなることは、これまでにも何度かあったことだった。お互い、真っ当な稼業をしているとは言い難い。かたやモグリの、かたや安楽死を専門とする医者である。特にキリコは、もはや表の医者としての名は無いに等しい。消息不明になることは度々あった。それは意図的なものであったり事故的なものであったりしたけれど、たしかにこれまでにもあったことだ。
 だから最初、ブラック・ジャックはそこまで気にもとめなかった。いつものように何かに巻き込まれでもして、“死神”と呼ばれながらも真の死神には嫌われているあの男は、ひょっこりまた姿を現すものだと、そのときのブラック・ジャックは考えていた。
 それがどうもそうではないかもしれない、と思い始めたのが一年前。仕事のかたわら、キリコを探し始めたのが半年前。
 捜索のかいもなく、キリコの居場所は杳として知れないままその半年は過ぎた。――そのときにはもう、ブラック・ジャックの心の内にたしかに点っていたはずの希望の光は、消えかかっていた。
 そして今日、ブラック・ジャックはユリの元を訪れた。キリコに何かがあったのなら、彼女が何もしていないはずがないと思った。彼女に何も知らされていないはずがないと思った。――彼の最期の言葉を、受け取るのはきっと彼女だろうと、思った。


***


「ブラック・ジャック先生には知らせるな、と。――私宛の遺書には、そう書かれていました」

 二通の手紙が、二人の間に置かれていた。
 薄水色の封筒の宛名には、『我が妹、ユリへ』と書かれている。既に開封された跡があり、いくつもの水滴がその紙を濡らしたであろう痕跡があった。古く変色したところもあれば、最近濡れたようなところもある。
 何度も何度も読んだのだろう。何度も何度も、兄の遺した言葉を噛み締めたのだろう。

「ただ、ブラック・ジャック先生がこの屋敷を訪ねてきたときには、事情を説明していいとも書いてありました。そしてそのときには、ブラック・ジャック先生に、この手紙を渡してくれと」

 そう言って、ユリは残った一通をブラック・ジャックにそっと差し出す。
 桜色の封筒だった。キリコがブラック・ジャックに送る手紙は、いつもこの色の封筒だった。普段は匿名であるはずの宛名、そこに書かれた文字――『我が友、BJへ』。
 彼の書いた文字を、最後に見たのも二年前だった。

「それまでは、絶対に知らせるな、と――」

 兄の遺言を語るユリの声は震えていた。それでも決して泣くまいとしていた。話している間、ユリは声を、口を、まぶたを、肩を震わせ、それでも彼女は涙を流さなかった。――彼女の眦に浮かぶ水滴を、ブラック・ジャックは見なかったことにした。

「……あなたは、それを守り続けたのか。私がここに来るとは、限らなかったのに」
「兄が、遺書にそう書いたのなら。――きっと、来てくださると、信じておりました」

 兄のことも、あなたのことも、信じておりました――ユリはそう言って、眦に水滴をひとつふたつ残しながら、それでも小さく笑った。

「そして、こうして来てくださいました。……深く、御礼申し上げます」

 安堵の表情を浮かべ深く頭を下げるユリに、慌てたのはブラック・ジャックだ。
 礼を言われる理由などない。彼女はずっと一人で、この屋敷でブラック・ジャックを待っていた。兄の遺言を守り、ずっと一人で、数年もの時間を。ブラック・ジャックは、意図せず彼女を待たせてしまっていたのだ。
 ブラック・ジャックはソファーから身を乗り出す。

「顔をあげてください、あなたが礼を言う必要などない」
「いいえ、いいえ、言わせてください」

 身を乗り出したブラック・ジャックに、ユリがすがりつく。ブラック・ジャックを掴む手の強さとは裏腹に、彼女はやはり、弱々しく震えていた。

「あなたが、兄を忘れないでいてくれた。それが、妹である私にとって、どれほど嬉しいことだったか――先生、先生、お分かりになりますか」

 ブラック・ジャックを見つめていた顔は次第に俯いていく。そうして話しているうちに、彼女の震えは段々と強くなっていった。
 そしてとうとう、ぽたりとひとつ、雫が落ちた。

「兄は、あのような仕事をしておりましたから。……必要以上に、人と関わることはしませんでした。――兄を覚えている人は、きっと多くはないでしょう」

 彼女の瞳から、落ちる雫が増えていく。

「兄の施術を受けた方は当然、お亡くなりになっておられます。そしてそのご遺族は、できる限り兄のことを忘れようとするはずです。……患者本人が望んだこととはいえ、一人の命を終わらせることを、ご遺族も決断された。ご遺族の方々が覚えていたいのは患者との思い出であり、兄とのやりとりではありません」

 一度零れてしまえば、もはや堪えきれなくなったのだろう。涙は止まらず、テーブルに、ブラック・ジャックのコートに、染みを作っていく。

「だから、だから、嬉しいのです――ブラック・ジャック先生、あなたは、兄を、キリコを、覚えていてくださった。覚えていてくださっただけではなく、こうして、今どうしているのかと、聞きに来てくださった。――ありがとうございます」

 ブラック・ジャックは、縋りついて涙を流すユリを見下ろしながら、自身の両の手を開いたり閉じたりを繰り返した。そしてそっと、ユリの背中に腕を回し、彼女を柔く抱きしめた。
 いつ来るともしれぬ男を、彼女はずっと、この屋敷で一人待っていた。兄の遺言を、彼女は守り通したのだ。――その心を、自分が認めてやらずして、いったい誰が認めてやれるのだ。一番認めたいであろう男は、もうこの世にはいないのに。むしろその男こそが、彼女をここに、閉じ込めたのに。

「……礼を言うのは、きっと私の方でしょう。あなたがずっと、私を、キリコを信じてここで待っていてくださったから、私はキリコの居場所を知ることができた。……墓守も、あなたが?」
「はい。私しか、兄の居場所を知りませんから」
「……墓がどちらにあるのか、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」

 そっと、ユリがブラック・ジャックの胸を押した。抗うことなく腕のなかからユリを解放してやれば、彼女は瞳に涙を湛えながらも、薄く笑った。

「きっと兄も――皮肉を言うでしょうけど、きっと、きっと、喜びます」