一番星は
静かに眠る
02
重い。
ひたすらに、身体が重い。
昨夜から感じていた微熱は、やはり本物だったらしい。しかし、超管局の局長であるテスラにとって、それは些細な報告では済まされない。
重く、鈍い倦怠感が彼の全身を支配している。目の奥が熱を持ち、執務机の木目に視線を固定しなければ、目の前の書類が揺らいでしまいそうだった。彼は思わず、机に備え付けられた小型の冷風機に顔を向け、その頼りない送風を肌に浴びた。
局長室の扉が静かに開くのを視界の端に捉えた彼は、そちらに目を遣った。
完璧にアイロンのかかった制服に身を包んだメイが、バインダーを胸元に抱えて部屋に入ってくる。ノックはなかったが、それはいつものことだった。秘書である彼女は、この局長室にいるテスラの状態を、誰よりも正確に把握している。
テスラの元へと迷いなく歩いてくるその足音は、寸分の狂いもない正確さで床に響き、そして止まった。
「本日のスケジュールです」
メイの声は感情の起伏を欠いている。それは彼女が常とする態度だが、今日のテスラには、まるで鉄壁のような断固とした意志の表れのように聞こえた。
メイはいつものように、テスラに今日のスケジュールについて記載された紙を手渡す。そして、これまたいつものように、その書類に目を通していた彼は、すぐにその内容の違和感に気が付いた。
「……午前十時に、最高管理委員会との会議があったはずだが?」
テスラは、意図的に声を低くした――だが、その喉の奥の掠れを隠すことはできなかった。
「五日後に変更されました。どうやら、緊急で調査しなければならない案件が出てきたのだとか」
メイはバインダーのページを素早くめくりながら答える。その動作には、一切の淀みがない。
「ならば、私にも話があって然るべきだ。案件の概要は?」
メイは一瞬、バインダーのページから目を上げ、テスラを観察するように見つめた。その視線は鋭く、まるで彼女が持つバインダーのように冷たい。それは、テスラの抵抗を許さないという、無言の宣告だった。
「『局長職務における、過度な私的負担が組織に与える影響の再検討と、改善命令に係る諮問及び動議』」
「…………」
テスラは目蓋の裏の熱を感じながら、ただ深く息を吐いた。最高管理委員会が、自身の秘書と結託したことは明らかだ。これは、彼らが仕掛けた無言のクーデターだった。
「局長証は万能ではありませんよ、テスラ。寝てください」
「……では、簡単な書類整理だけはさせてもらおう。一時的に代行する者が困るはずだ」
テスラが微かな抵抗を示すと、メイは眉一つ動かさずにそれを切り捨てた。
「ご安心を。既に整えました」
「…………」
「他には?」
――完全な敗北だった。
メイの周到さの前では、自身の責任感は何の役にも立たないらしい。それでも彼は、唯一の懸念事項を口にした。
「イワンの動きは?」
「本日未明から、任務に出ております。以前から予定されていた任務ですから、彼が違和感を覚えることはないかと。戻ってくる頃には、あなたの体調も安定しているはずです。……もちろん、今から、きちんと、休むことが、大前提とはなりますが」
ひとつひとつ、単語を区切りながら伝えられた最後の言葉は、有無を言わせない命令だった。
「……この件を、知っているのは?」
「私と、最高管理委員会。そして、内務組。以上です。箝口令は既に敷いています」
メイの表情は依然として変わらない。テスラは、彼女が自分を公然と休ませるために、どれほどの根回しと圧力を用いたかを想像した。それは超管局の局長であるテスラに対する献身であり、秘書として、彼を病に臥せらせたことへの、一種の怒りにも似た感情の表れかもしれない。
「…………イワン達の様子を、注視しておけ」
敗北を認めても、警戒は怠らない。弱肉強食は、何も野生の世界に限った話ではない。他の動物よりも知性が発達しているが故に、その脅威は野生のそれを上回るのだから。
「承知いたしました。では、お休みなさいませ」
メイは一歩後ろに下がり、形式的な一礼をした。その足音が扉に向かって正確に進む。
「……メイ」
「はい」
テスラがメイを呼び止めれば、彼女はすぐに立ち止まった。新たな指示があるのかと、その視線をまっすぐにこちらへと向けている。
「――君も、きちんと休むように」
それは、秘書として、完璧に職務を果たした彼女への――局長としての、あるいは人間としての言葉だった。
「…………」
彼女は、扉の前に立ち止まったまま、ほんの数秒だけ何かを考えるように沈黙した。そして初めて、その感情のない声に、わずかな、本当にわずかな動揺、あるいは呆れのような色彩が混じった。
「……体調を崩している、今のあなたに言われても説得力がないわね」
「まったくだ」
自嘲するテスラに対し、メイはそれ以上、何も言わなかった。
彼女は局長の体調が回復するまで、自分がこの超管局という巨大な機構の代行者であることを深く理解している。この場で感情的なやり取りを続けることは、状況を混乱させるだけだ。
メイはバインダーを小脇に抱え直すと、テスラの方へ向き直る。
「では、失礼いたします。薬はデスクの隅に置いてあります。水分補給を怠らないでください」
そう言い残すと、彼女は音もなく局長室を後にした。