死後は地獄で
死を希う
第3話
ふ、とアオギリは目を覚ました。ぼやける視界の先に見慣れない天井が見えたことに身構えたものの、すぐにここがマツブサの実家であることを思い出す。体を起こそうとして、アオギリは再び布団へと逆戻りしてしまった。……頭が痛い。
(飲みすぎた……)
もう若くないと分かっているのに、マツブサと共にいるとつい忘れてしまう。……まあ、あの男が酒に強すぎることが原因のように思えなくもないが、それにつられてしまうのはこちらの落ち度というほかないだろう。
いつも以上にゆっくりと体を起こして、アオギリは辺りを見渡した。隣の布団にはマツブサが眠っている。そして二人の布団の間、枕元に水の入ったペットボトルが二本置かれていることに気付いて、アオギリはそのうちの一本に手を伸ばした。
(私の分ではないんでしょうね)
大方、自分用に二本準備しただけだろう。わざわざアオギリのために水を用意するような男ではない。だからといって飲まないという手は今のアオギリにはないので、ありがたく頂戴することにした。
(今は何時だ)
水を飲み終えて一息つき、アオギリは時計に目を向ける。時計の針は二時を示していた。そこまで長く寝入っていたわけではないらしい。
ペットボトルの蓋を閉めて元の場所へと戻す。自然と漏れ出る欠伸を噛み殺しながら、アオギリは再び布団の中へ体を潜り込ませた。もう一度寝るにはちょうどいい時間だろう。
そうしていつも通り、アオギリは布団の中で目を閉じて静かに呼吸をしていた。やがて布団に沈み込むような感覚を覚え、自身が眠りにつこうとしていることを知る。アオギリはそれに抗うことなく目を閉じていた。……しかし、何故か寝付けない。
寝返りをうってみたりもう一度呼吸を整えてみたり、眠れないときの行動は一通り行ってみたが、やはり寝付けない。アオギリは眠ることを諦めて目を開けた。――何かが引っかかる。眠りを妨げるなにかを、アオギリの神経は感じ取っている。
視線だけを動かしてぐるりと部屋の中を見渡したアオギリは、そのままゆっくりと体を起こした。その動きに合わせてこすれる布団の音が、静かな部屋に響く。……静かな部屋?
(――音がしない)
違和感の正体はこれだったかと、アオギリは注意深く耳をすませた。案の定、音が――外にいるはずのポケモンたちの鳴き声が聞こえない。
ここは山の中の建物だ。これまでにポケモンたちの鳴き声はいくらでも聞こえてきたのだが、それが今となっては不気味なほど静まり返っている。光に群がり飛び込んできた虫ポケモンたちの数から考えれば、この静寂は異常だ。……いったい、あれほど鳴いていたポケモンたちはどこにいったのか。
(…………)
アオギリは静かに立ち上がる。そして状況を確認するために外に出ようと、廊下に繋がる障子に歩を進めた、そのときだった。
「……!」
障子の向こう、外に繋がる廊下に音もなく現れた人影にアオギリは小さく息を詰めた。
(誰だ?)
この家にはアオギリとマツブサしかいない。だから最初、アオギリは誰かがこの家に侵入してきたのだと思った。黒い人影が、まるで何かを探しているかのように部屋の前を行ったり来たりしていたからだ。
(盗む物もありそうにない家に、よくもまあ……)
アオギリはマツブサとの今朝の会話を思い出していた。『やらかすような輩はいない』とマツブサは言っていたが、いるではないか。どこにいても人間などそういうものなのだろう。
半ば呆れながら、アオギリは障子に背を向けた。鞄の中からトドゼルガの入っているモンスターボールを取り出すためである。
そして鞄の中からモンスターボールを取り出し、こんこんとボールを叩いて、アオギリはその中で眠っているトドゼルガを起こした。
音に反応して、トドゼルガが目を覚ます。しかし、トドゼルガはすぐにきょろきょろと辺りを見渡し始めた。寝ぼけているのかと思ったが、どうも様子がおかしい。
やがてトドゼルガは、モンスターボールの中からボールを叩き始めた。まるでアオギリに何かを伝えようとしているかのように、トドゼルガはアオギリを見つめながら、ボールを叩き続けている。
「……トドゼルガ?」
様子のおかしいトドゼルガにアオギリが呼びかけた、そのときだった。一際大きくトドゼルガが暴れたかと思えば、何かが障子にぶつかる音が部屋に鳴り響いた。
(入ってくるつもりか)
不届き者を追い払うべく、アオギリは振り向きざまモンスターボールを構えた。そしてそれを投げようとして、すんでのところでその動きを止めた。……なんだ、あれは。
(――首、が……?)
月明かりに照らされ映しだされていた人影の首が、ろくろ首のように伸び、ぐにゃりと曲がっていた。人影はその長い首をしならせ、がんがんと障子を叩いている。手ではなくその頭で、何度も何度も障子を叩いている。
アオギリはこの異常な事態に困惑していた。そうこうしている間に、ひとつ、またひとつと人影が増えていく。腕と思しき箇所が異様に長いもの、首から上がないもの、子供と思しき小さなもの、枯れ木のように細いもの。障子の向こうの世界を覆い尽くしていく影たちに、アオギリは動けない。――動いてはならないと、本能的に理解していた。
障子の向こうに蠢く影たちは、一様に苦しそうな声で呻いていた。言葉にならない声をあげながら障子を叩き、震わせている。こんな脆い木材なのだからすぐにでも壊れてしまうはずなのに、どれだけ叩かれようと人影に縋りつかれようと、障子はひしゃげることも破れることもなくそこに在り続けている。……異様な光景だった。
(――なんだ、これは)
障子の向こうにいる存在を言い表す言葉をアオギリは知っていたが、はいそうですかと素直に受け入れるわけにもいかなかった。そんなものがこの世に存在するなどと考えたこともなかったアオギリにとって、この状況は理解し難いものでしかない。
時間が経てば経つほど、人影は増え外の呻き声は大きくなっていく。気がつけば障子の向こう側は真っ暗になっていた。人影に埋め尽くされ、月明かりが届かなくなったのだ。それでもそこに居るのは分かる。一体どこに隠れていたんだと思うほど、外にはその気配が充満していた。
(どうしたものか)
アオギリは思考を巡らせる。にわかには信じ難いことではあるが、障子の向こうに居る存在は明らかに人間ではない。炎の揺らめきにより人の影も同じように揺らめき、その結果、影がそういった存在のように見えることはある。しかし、この影の映り方は明らかにその類のものではない。トドゼルガを用いて交戦したとして、なんとかなるものではないのだろう。
「……マツブサ」
アオギリはこの家の主の名を、できるだけ小さな声で呼んだ。――この事態を説明できるものがいるとすれば、それはただ一人、マツブサだけである。背後の気配はすぐに動き出した。
「なーんで起きちまったかね、お前さんは」
マツブサは大きなあくびをひとつして、普段と変わらぬ声量でそう言った。そして音もなくアオギリの背後に近寄り、アオギリの肩をぽんと叩く。
「寝とけばいいのに」
「好きで目を覚ましたわけではありません。……それよりも説明を」
「説明……って言われてもなぁ。なんて言ったらいいのかね、これは」
困った声でそうボヤいて、マツブサは自身の顎を撫でる。そしてしばらくの間ひとりで唸っていたが、やがて口を開いた。
「ま、ただの心霊現象だ」
「そんなことは見れば分かります」
「じゃあ何を説明しろってんだ、何でこんな現象が起きるのかって話か?」
「当たり前でしょう」
「んなもん知るかよ、生まれた時からここはこんな感じなんだぜ。……あ、そうそう」
思い出した思い出した、と呟いてぽんと手を打ったマツブサが言葉を続ける。
「こいつらが居なくなるまでトイレ行けないからよろしく」
「そんなことはどうでもいい。……いや、どうでもよくはないか……」
「おう、オレたち酒飲んでるからな」
今のところ問題はないが、これは割と死活問題ではないか。アオギリはそう思ったが、この心霊現象とやらを解決すればいいだけの話ではないかと考え直す。同じことはマツブサも考えていたようで、その視線を障子へと移して口を開いた。
「つーわけで、お早いとここいつらにはお帰り願いたいが……」
マツブサがそこで言葉を止める。そして背後にいるアオギリを責めるように睨んでくるので、アオギリも自然と睨み返した。――なんだ、何か言いたいことでもあるのか。
「なんです」
「……お前、こいつらがそこに出てきたときに声出したろ」
「……いえ、悲鳴をあげた覚えはありませんが」
「じゃあ独り言とか言わなかったか」
「独り言、ですか」
(何か言っただろうか)
マツブサの言葉に、アオギリは少し前の自身の行動を思い返す。マツブサが何度も聞いてくるということは、おそらくこの現象の引き金はアオギリがこの部屋で声を出したからなのだろう。しかし悲鳴をあげた記憶はなく、蠢く影たちに声をかけた記憶もない。
ふと、アオギリは自身の手の内にあるモンスターボールに目を向けた。そして思い出す、トドゼルガの様子がおかしかったときに、彼に呼びかけたことを。
「トドゼルガの様子がおかしかったので、声をかけましたね」
「それだ、それ」
マツブサはびし、と人さし指をアオギリへと向ける。
「そのせいでこいつらはオレたちの存在に気付いたわけだ。お前も聞いたことくらいあるだろ、怪談話の十八番だよ。結界の中では声を出すなってな」
「――ああ、なるほど」
アオギリはテレビ局長としていくつかの心霊番組の構成に携わったことがある。所詮は作り話と特に気にもとめていなかったが、今回の事態を鑑みるに、人々の間で語り継がれる怪談話はあながち嘘でもなかったようだ。
(……盛り塩はこのためか)
アオギリが入浴している間に部屋の四隅に置かれていた小皿。あのときのマツブサは風習だと言っていた。そして今も、『生まれた時からここはこんな感じだぜ』と。
妙に落ち着いているマツブサの様子から分かっていたことだが、やはり彼はこの現象が起きることを最初から知っていたのだ。
「では、今も貴方とは話さない方がいいのでは」
「もう今更だ」
マツブサがあぐらをかいて、その膝の上で肘をつく。その顔にははっきりと『めんどくせえ』と書かれていた。
「音をたてるなだの喋るなだのが通用すんのは、中にオレらがいるって気付かれてねえときだよ。中にいるってバレてたら意味ねえの」
「……では、どうするつもりですか? 戦いますか」
「馬鹿言え、筋肉盛るのは体だけにしとけよ」
「誰が脳筋だ。大体貴方は――」
マツブサの言葉を受けて、部屋の中はいつも通り、軽口を言い合う空気になった。その空気に流されるようにアオギリは言葉を続けようとしたのだが、外の存在がそれを許さない。
一際大きな音がしたかと思えば、どれだけ叩かれようともビクともしなかった障子がみしりと音を立てた。――このままでは、中に入ってくるのではないか。
「マツブサ」
アオギリはマツブサから視線を外し、みしみしと音を立てる障子を睨みつける。そのまま背後にいるマツブサに呼びかけた。明確な対処法を知るのはこの男しかいないのだ。
マツブサは小さくため息をついて立ち上がり、障子の前まで歩いていく。そしてすとんとそこに座った。アオギリと障子との間の位置だ。
「あーあー、嫉妬すんなよ」
厭う気持ちを隠そうともしない声で、マツブサが障子の向こうへ話しかける。
「そんなに海に行きてえのか」
(――海?)
マツブサの言葉に、アオギリの思考は一瞬固まった。しかしすぐに動き出す。
(何故ここで海が出てくる)
「救われたいっつー気持ちは分からんでもないがな。……そんなもんがないってことくらい、もう分かってんだろ」
抑揚のない声でマツブサは言う。その言葉を否定するかのように、障子を叩く音はさらに激しくなっていく。軋む音が大きくなっていく。
「駄目だこりゃ。……話になんねえな。分かってたけどよ」
マツブサはそれを意に介することなく肩をすくめる。そしてアオギリの方へと振り返った。
「朝までコースだ、付き合えアオギリ」
「言われなくとも起きてますよ。……さきほどの言葉、説明はあるんでしょうね」
「まあ、さすがにな」
それはそれは大きなため息を吐いて、マツブサがアオギリへ向き直る。
「ま、気楽に聞けよ。そんな難しい話でもねえさ」