死後は地獄で
死を希う
第2話
(散々だった……)
タオルで濡れた髪を拭きながら、アオギリは寝室へと戻っていた。……あれだけの虫ポケモンを相手にするのは、アオギリにとって久しぶりのことだった。さすがは山の中、灯りに群がるその数は尋常ではなかった。
外であればトドゼルガで追い払えたものの、室内ともなればそうもいかない。布団はその部屋に敷いていたし、二組しかないのである。さすがに三日間も畳に雑魚寝はしたくなかった。
虫ポケモンたちをなんとか撃退し虫除け線香を焚いて落ち着いた頃には、引いたはずの汗が再び額に浮かぶほど暑くなっていた。その流れで食事の前にシャワーを浴びてしまおうという話になり、アオギリが脱衣所へと向かったのが今から十五分ほど前のことである。
「お、上がったのか」
アオギリの足音に気付いたらしいマツブサが障子を開けて、そこから顔を覗かせた。
「バクーダの湯加減は良かったろ?」
「はい。見かけによらずいいお湯でした」
「一言多いんだよ、お前は。お前が昔ながらの風呂に入ってみたいっつったんだろ、準備したオレに感謝しろよなー」
マツブサが不服そうに口を尖らせる。――そんな顔をされても。
(それを提案したのはお前だろうに)
まるでアオギリが最初に言い出したように聞こえる言い方だが、『せっかくだし、風呂も昔ながらのやつを使おう』と提案したのはマツブサだ。『無理そうならガスで沸かせる普通の風呂もあるから』と彼が言うので、汗を流せさえすればよかったアオギリはそれに乗っただけである。……乗ったのだから同罪といえば同罪なのだが、都合の悪いことは横に置くのが大人なのだ。
「貴方が言い出したんでしょう」
「それに乗っかったのはお前だろ」
「そんなこともあったような?」
「お前な――」
「ところで」
「おん?」
「手慣れてましたね」
呆れ顔をして言葉を続けようとするマツブサを遮り、アオギリは話題の転換を試みる。一瞬驚いた顔をしたマツブサだったが、すぐに嬉しそうに笑った。どうやら話題の転換は成功したらしい。
「そうだろそうだろ? ドンメルのときからこの家の湯沸かし担当だったからなー、風呂上がったら木の実やらねえと」
鼻歌でも歌い出しそうな声でそう言って、マツブサは部屋の中に戻っていく。……バクーダではなく、湯を沸かすまでに至るマツブサの行動を褒めたつもりだったのだが、まあ誤解されていても問題はない。わざわざ訂正するのも小っ恥ずかしいものだ。
しばらくして、マツブサが空のモンスターボールをひとつ持って廊下へと戻ってきた。おそらくはバクーダが入っていたボールだろう。
「んじゃ、次もらうわ」
「どうぞ。脱衣所には貴方の服も一緒に持っていきましたから、きちんと着て戻ってくるように」
「うげぇ、暑ぃのに……つーか人の服勝手に持っていくなよ」
心底嫌そうな顔をしてマツブサがアオギリの横を通り過ぎる。すれ違いざま、マツブサはアオギリの肩をぽんと叩いた。
「あ、飯作ってねえからよろしく」
「ええ、知ってます。よぉく知ってます」
風呂場から戻ってくる時に台所を覗いたが、そこが誰かに使われた形跡はなかった。そもそも料理の匂いがしなかった時点で察してはいたがこの男、この時間に何をしていたんだ。隣の部屋に布団を敷くだけか? 酒を飲んでいないだけマシとでも思えばいいのか?
「貴方の嫌いな食材をふんだんに使うことにしましょう」
アオギリの言葉に、待ってましたと言わんばかりにマツブサはにやりと笑った。
「そう言うと思って最初からそんなもの買ってきてませーん! 残念だったな!」
「……チッ」
マツブサが自分で食材を買いに行くと言って聞かなかったのはこのためか。
「野菜はあるんでしょうね」
「ねえよ、オレ野菜嫌いだし」
「は?」
「そんじゃよろしく!」
ひらひらと手を振って駆け足で風呂場へと向かっていくその背中をじとりと見送って、アオギリは大きくため息をついた。……どうやらこの三日間、アオギリは野菜にありつくことはできないらしい。考えるだけで胃がもたれてくる話だ。もしも冷蔵庫の中に肉と酒しか入ってなかったらどうしてやろうか。
(そのときは酒を全部捨ててやろう)
そう決意を固めて、アオギリはマツブサが開け放っていった障子に手をかける。料理を作るにせよ、風呂上がりなのだから休憩くらいは挟みたいのだ。
障子を大きく開けて、アオギリは部屋の中へ足を踏み入れようとした。しかし、アオギリはそこでぴたりと動きを止める。
(……なんだ?)
何か引っ掛かりを感じる。アオギリはその場から動かず、部屋の隅々まで視線をめぐらせた。
職業柄、部屋の様子を観察するのは癖のようなものだった。異変をひとつ、見落とすだけで命を落とすこともあるのが裏社会。先ほどまであったものが無い、あるいは無かったものがあるという事態は、早急に原因を突き止めねばならないのである。
そして今。――先ほどまでこの部屋に無かったものが、部屋の四隅に置かれていることにアオギリは気付いた。
(――塩、か?)
白い小皿に、白い粉が盛られていた。そしてそれが、部屋の四隅に置かれている。
その光景を見たアオギリの脳裏をよぎったのは、テレビ局で放映している夏の特別番組だった。
そしてそのなかで、紹介されていたものがある。部屋の四隅に置く、白い粉――ここまでくれば、今この部屋の四隅に置かれているそれらが、何を目的として置かれたものなのかは自ずと知れる。
盛り塩だ。
よくある怪談話において、部屋に結界を張るために登場するそれが今、アオギリのいる部屋に置かれていた。
(何故こんなものを。……マツブサが用意したのか?)
この部屋を掃除したときには確かになかったものだ。そしてシャワーを浴びに行ったときにもなかった。この部屋に残ったのはマツブサだけであり、戻ってきたアオギリと入れ違いに部屋を出ていったのもマツブサだけである。当然、今この部屋にいるのはアオギリだけだ。
アオギリとマツブサの二人しかこの家にはいないのだからそれは当たり前のことだが、あの男が盛り塩をしたというのはにわかには信じがたい。だが、マツブサの仕業でないとしたならば、これは一体誰が置いていったのだ?
(……聞けばいいだけの話か)
もう一度ゆっくりと部屋の中を見渡して、ほかに変わったところがないか確認する。そして盛り塩以外にはないと分かったところで、アオギリは障子を閉めて部屋の中へ歩を進めた。――外でげこげこと鳴いていた蛙は、いつの間にか一匹になっていた。
***
「ああ、あれか? 盛り塩」
わしわしと濡れた髪をタオルで拭きながら、なんでもないようにマツブサは言う。何を分かりきったことを、とその顔に書いてあった。二人の間にはちゃぶ台が一つ置かれており、その上にはアオギリが作った夕食と、マツブサが持ってきた缶ビールが二つ並んでいる。
「……貴方が置いたんですか」
「おう」
「何故?」
「何故ってお前……まあ、あれだ、癖だよ」
「癖?」
「風習ってやつだ」
肩にタオルを引っ掛けて、マツブサは一番近くにある盛り塩へと向かい、その側にしゃがんだ。
「オレの村、夜には部屋に盛り塩を置いてたんだよ」
「魔除けのために?」
「んー……まあ、そんな感じだろ。昔っからやってるからよ、流れでやっちまったな」
「はあ……」
「気にすんなよ、ただの塩だ」
マツブサはそう呟いて、よいしょと腰を下ろした。冷えた缶ビールを手にとり、プルタブを開けてぐいっと煽る。
「っはー、夏の風呂上がりっつったらこれだよ、これ。あ、つまみ持ってくんの忘れた」
「塩昆布ならありますよ」
「なに、その渋いチョイス……」
「熱中症対策に」
「それ意味あんの?」
まあいいか、と呟いてマツブサが食事に手をつけた。結果的にマツブサの好物ばかりを集めた料理となったため、彼は満足気にそれらを口に運んでいる。アオギリも残ったもう一本の缶ビールに手を伸ばし、それを開けて一口飲んでから箸を取った。
「ドライヤーはそこのコンセントの横に置いてますから」
「えー」
「当たり前です、風邪をひきますよ」
「夏のドライヤーってよ、乾かしてる間に汗かかねえ? あれ意味ねえと思う」
「それは貴方だけでは」
「みんなお前みたいに髪が短えと思うなよー」
「畳が濡れるんですよ、食べ終わったら乾かしてください」
「そん頃にはもう乾いてるよ、さすがに」
「そうなんですか? そこまで髪を伸ばしたことがないので……いえ、そうではありません、今まさに畳が濡れているという話をしているんですよ」
「そん頃には畳も乾いてるって」
「そういう問題ではなくてですね」
「ところでよ」
「なんです、まだ話の途中で――」
「お前まだ酒飲む? 飲むなら持ってくるけど」
「は? これを飲み終えてから考えるつもりですが――……あの、飲み終わるの早すぎませんか」
「こんなんで足りるわけなかった」
「それもそうでした、では私の分もお願いします」
「ん? お前はつまみ持ってくる役だぞ、ほら立てよ」
「何本飲むつもりなんですか……」
「両手いっぱい」
「誰が最低限の酒量を答えろと言いましたか」
「バレてら」
そんな会話をゆるゆると続けながら、二人は食事を続けた。酒が入れば多少なりとも気が緩むのはアオギリもマツブサも同じで、ここがアクア団・マグマ団という立場から隔絶された場所ということもあり、二人は普段よりも穏やかに話していた。
食べて飲んで喋って、ふとしたときに静まり返ったかと思えばまた喋りだす。夕食をすべて食べ終えて、ちゃぶ台の上にあった酒が畳に転がる頃には、もう夜も更けていた。少しだけ赤くなった顔をアオギリに向けて、マツブサが自身の髪を弄りながら言う。
「ほら、髪乾いたろ? あと畳も」
ばんばんと畳を叩くマツブサに、アオギリは胡乱な目を向ける。
「……なるほど、これが自然の力……」
「よぉし、今日はもうお開きだ、早く寝ちまえ」
マツブサよりもずっと赤い顔をして座っていることすら覚束無い様子のアオギリに、マツブサはぱんぱんと手を叩いて宴会の終わりを告げた。ふらりと立ち上がるアオギリに、マツブサは肩を貸してやる。
「おら、隣の部屋まで歩け」
「歩いてます……」
「足動いてねえよ。重てえからなんとか頑張ってくれ、そろそろオレの肩が外れる」
「外そう……」
「馬鹿言え」
なんとか隣の部屋に敷かれている布団までアオギリを連れていき、マツブサは一息ついた。そして布団に横たわるアオギリの側にあぐらをかいて座り、肘を乗せて頬杖をつく。
「お前、そんなに酔いやすかったか? 前はもっと飲めただろ」
「私も、そう思っていたんですが……もう、歳ですかね」
ふう、と熱い息を吐いて、アオギリは大して冷たくもないマツブサの手を自身の頬に押しつける。――マツブサと出会ってから、一体どれだけの月日が流れただろうか。
少なくない年月を、二人は時に殺し合い、時に酒を飲んで語らいながら過ごしてきた。髭を生やして意図的に変化を与えているアオギリとは異なり、マツブサは皺は増えども出会った頃から大きく姿が変わらない。その姿に惑わされるが、確かに二人は、出会った頃よりも歳をとったのだ。
火照る体が冷たい布団に冷やされ、飲んだアルコールの量が多かったことも相まって、アオギリの思考は徐々に霧散していく。やがて瞼も開けられなくなり、今のアオギリに分かるのは、頬に当てられたマツブサの手の温度くらいだった。
「……寝ないんですか……」
「オレ? もう少し飲んでから寝るわ」
「……片付け……」
「はいはい、早く寝ろ」
空いた手でマツブサがアオギリの胸元をぽんぽんと叩く。子供扱いするなとアオギリは言いたかったのだが、さすがにもう限界だった。胸元を叩かれている感覚もなくなりマツブサの温度も遠ざかった頃、アオギリの意識はふっと途切れた。
***
「あーあー、気持ちよさそうに寝ちまって」
マツブサは、普段より少し大きな寝息をたてて眠っているアオギリの頬をつついた。アオギリは眉をしかめて小さく唸り、その手から逃れようとする素振りをみせたものの、目を覚ます様子はない。
その後しばらくの間、マツブサは眠るアオギリを眺めていた。そしてアオギリの頬に押し当てられていた自身の手をそっと抜きとり、アオギリへ申し訳程度に布団を被せて隣の部屋へと戻る。
畳の上に散乱する空き缶と菓子袋を足で退かし、マツブサはちゃぶ台の前に座る。片付け? そんなものは明日にやった方がよっぽど効率がいいだろう、こちとら酔っ払いなのだ。
(オレに片付けを任せたおめーが悪い)
明日の朝、目を覚ましたアオギリの様子が目に浮かぶようだ。マツブサは喉を鳴らして笑い、最後の一杯となるグラスを一気に煽った。既に温くなっていたそれはお世辞にも美味しいとはいえなかったが、ちゃぶ台の上にぶちまけられているつまみをいくつか口に運んでその味を中和する。そしてふっと息を吐いて、天井を見上げた。
「歳か。……そうだよなあ」
マツブサは神妙な面持ちで呟く。その声はあまりにも真剣で、おおよそ酒を飲んで酔っ払っている人間の声ではなかった。
「いつか死ぬんだよなぁ、オレも」