死後は地獄で
死を希う
第1話
「終わったー!」
「汗を拭きなさい、掃除をした意味がないでしょう」
畳敷きの部屋の真ん中でばたりと倒れ込むマツブサに、アオギリはタオルを投げ渡した。それを受け取り汗を拭きながら、マツブサが起き上がる。空いた手で器用にペットボトルの蓋を開け半分ほど飲み干し、大きく息を吐く。そして立ったままのアオギリを見上げた。
「暑くねえの?」
「この大量の汗が見えませんか」
「……代謝いいなあ、お前」
「お酒をラッパ飲みする貴方よりはね」
ざっと汗を拭いたあと、アオギリはマツブサの隣に座って一息つく。早く汗を流してしまいたいが、今はとにかく水を飲んで休みたかった。
昔ながらの家らしく部屋数が多いうえ、掃除道具も老朽化しているとなれば、いつも通りの掃除などできるはずもなかったのである。箒が真っ二つに折れたときは、さすがにアオギリの心も折れそうだった。隣で大笑いしていたマツブサへの怒りを原動力にすることでなんとか掃除を続けることに成功したが……誉むべきかな、人類の科学技術、その進歩。
結局、全ての部屋を掃除することはできず、この三日間で使用すると予想される部屋だけを徹底的に綺麗にすることで妥協することにした。この広い家の間取りについてマツブサに説明されながら掃除を進めたので、まったく無駄な行為ではなかっただけ良かったといえる。
アオギリは痛む肩や腰をとんとんと叩き、ペットボトルの蓋を開けて水を飲む。掃除をしている間に、真上にあった太陽は大きく西に傾いていた。拭いても拭いても体中から吹き出す汗に耐えきれず、アオギリは確認の意味を込めてマツブサに問いかけた。
「本当にここにはクーラーがないんですか」
「ねえよ、昔はこんな暑くなかったし」
その言葉を聞いて、アオギリはさらにこの部屋が暑くなった気がした。気怠げに見上げた天井には、夏を乗り越えるに必須なクーラーが見当たらない。この部屋だけでなく、この建物全体にそうした機械はない。この古いとも新しいともいえる建物は、電気や水道こそ通っていたものの、肝心の機械がほとんどなかったのである。
これは暑さに強くないアオギリにとって死活問題であった。最初からそれをマツブサから聞いていれば、こんな場所には絶対に来なかったものを。
マツブサの話に乗ってこんなところに来なければよかったと、アオギリは既に後悔していた。――しかし、しかしだ。
(マツブサの実家なんて、どうしたって気になるだろう……)
誰に言い訳をしているのか分からないが、この男を育てあげた土地がどんな場所なのか、少なくとも一週間前のアオギリは気になったのだ。予定ではその前日から夏季休暇に入る予定だったから、スケジュール的にもちょうど良かったのである。
それがまさか、ここまで生活に苦労する場所だったとは。想定外もいいところだった。
「最初に言っておきなさい、こういうことは……」
「逆に聞くけどよ、なんでクーラーがあると思ったんだよ」
「電気も水道も通ってると言ったからに決まってるでしょう」
「誰も住んでねえ家にクーラーがあっても意味ねえだろ」
「ですが、冷蔵庫はあったじゃないですか」
物置の掃除を終えたあと、家の中に入って窓という窓を全て開けていったときには、すでに台所に冷蔵庫は備え付けられていた。おかげさまで温くなっていた飲み物を冷やすことができ、今まさにその冷たい水を飲んでいるというわけだが、なぜ冷蔵庫はあってクーラーはないのか。
「あ? あれは隣のばあさんから譲ってもらったんだよ」
「いつの間に……」
「お前が物置の掃除してるとき。ここが廃村になるってのは知ってるだろ?」
「掲示板に貼りだされてましたね」
「それそれ。そんで今日引っ越すから、使うなら使ってくれってよ。古くなってたし、孫ん家で暮らすからいらねえんだと」
「ああ、どうりで手伝わなかったわけです」
物置の掃除を終え外に出たときにマツブサの姿が見えなかったのは、そういうことだったのか。てっきりどこかで涼んでいるだか休んでいるだかしていたのだと思ってそのときは彼の頭を叩いてしまったのだが、とんだ冤罪だったというわけだ。
「そんかわり冷たいもん飲めるようになったんだからいいだろ」
「それについては感謝します。……感謝しますが、結局暑いことに変わりはないんですよ」
「まあ……夜になったら気温も下がるからなんとかなるって」
「なんとかならなかったら?」
アオギリの言葉に、マツブサはうんと硬い笑みを浮かべた。
「……トドゼルガの出番だな!」
「分かりました、お前がクーラーになるんですね」
「氷漬けはやめてくれ」
「では代替案を」
「えー……んなこと言われてもなあ……」
「貴方が一番ここでの暮らしに詳しいはずでしょう」
げんなりとした顔をしてマツブサが頭を抱える。再び床に突っ伏してうんうんと唸っていたマツブサだったが、にわかにがばりと起き上がった。
「そうだ、思い出した。行こうぜアオギリ」
「? どこへ」
ペットボトルとタオルを手に取ってマツブサが立ち上がる。そしてアオギリに向かって、にっと笑いかけた。
「避暑地」
***
「到着でーす」
マツブサが案内したのは、縁側のある小さな部屋だった。太陽の光があまり入らない構造になっているのか、部屋の中は少し薄暗い。
(避暑地などと言うから、一体どこに連れていかれるのかと思えば……)
川にでも連れていかれるのかと思っていたアオギリは避暑地と名のついた部屋に辿り着いて拍子抜けしたものの、確かにその部屋は他の部屋と比べて涼しく、暑さを凌ぐには十分と思われた。
「涼しいですね」
「だろ? ガキの頃はクーラーもなかったからよ、暑いときはここに逃げ込んでたのを思い出してな。夕方になるともっと涼しくなるぜ」
果たしてマツブサの言葉通り、太陽が西に沈んでいくにつれてその部屋はさらに涼しくなった。家屋が山奥にあり、さらには縁側が東向きにあることも幸いして、この部屋の中へと吹いてくる風はより心地よいものとなっている。
さらに涼しい風を求めて、アオギリは縁側に腰掛けた。暑さ対策のために持ってきた扇子を取りだして、アオギリはぱたぱたとそれを扇ぐ。マツブサは部屋の真ん中で横になり、吹いてくる風を気持ちよさげに受けていた。
「どうよ、オレの生まれた場所は?」
「田舎ですね」
「他にもっと言うことあんだろぉ……」
そうしてしばらくの間、二人は静かに涼んでいた。生い茂る草の青い臭いとそこかしこで鳴きはじめる蛙の声に夏の季節を感じながら、空が暗くなっていくさまを眺めていた。雲ひとつない今日の空であれば、さぞ美しい星空が見えることだろう。
そして太陽も西に落ちきろうとする頃、一際強い風が部屋の中へと吹き込んできたときのことだった。
「……あ?」
小さく声を上げて、その声に似合わぬ勢いでマツブサが飛び起きる。そして風が吹き込んできた縁側の方へと目を向けると、そのまま立ち上がり歩き出した。
「アオギリ」
「なんです」
「いや、ちょっと……」
答えにならない答えを返して、マツブサはアオギリの後ろに座り込む。そのまま首元に顔を寄せ、そして――
「――! なっ……」
「……お前、最近海行ったか?」
すんすんと鼻を動かしてアオギリの匂いを嗅ぎ出したマツブサに、アオギリはぎょっとしてマツブサの顔を押しのける。
「急に何を――」
「なあ、海行ったか?」
「こちらの質問に――」
「なあ、行った?」
「……マツブサ?」
マツブサがアオギリの話を遮るどころか聞きもしないことなど、これまでにいくらでもあった。しかし、どうも今のマツブサの様子はおかしい。
マツブサの顔を押しのけていた手を退ければ、そこにはいたく真剣な顔をしたマツブサがいた。ふざけている様子はなく、その目はまっすぐアオギリを見つめている。
「行きましたが……それがなにか?」
アクア団の活動の一環として二日前に海に行ったことは事実だが、それがなんだというのか。
「んー、そうか……いや、まあ別にいいか……」
しばらくの間ふんふんと鼻を鳴らしていたマツブサだったが、何事かを納得した様子ですっと離れた。そのまま先ほどまで横になっていた場所まで戻っていく。
(突然何を……)
マツブサの鼻先が掠めていた箇所に手を置き、アオギリは半ば呆然とマツブサの背中を見つめていた。突然マツブサがおかしな行動をとりだすことはよくある話だったが、だからといってそれに慣れているわけではない。
そしてなによりも、アオギリには気になることがあった。
(昨日……シャワーは浴びたはずだが)
アオギリは自身の右腕を鼻先まで持っていき、匂いを確かめてみた。……アオギリの予想通り、汗の匂いとタオルの芳香剤の匂いがするだけだ。朝起きてから今に至るまで海に近付いてはいないのだから、今のアオギリから海の匂いなどするはずもない。ここに来るまでの道中も、向かう先が山だったこともあり、海は彼方遠くに見えるだけだったのだ。
(野生児じみているとは思っていたが、これは……さすがに度が過ぎる)
「マツブサ」
真意を確かめるべく、アオギリはマツブサに声をかけながら顔を上げた。
「……マツブサ?」
顔を上げた先、部屋の中にマツブサの姿はなかった。薄暗くなったその部屋の中で、アオギリはぱちぱちと瞬きをする。……いつの間に出ていったのだ、あの男は。気配を消すのをやめろと、あれほど言っているのに聞きやしない。
耳をすませば、少し離れた廊下が軋む音がした。ぎしぎしと鳴る音はアオギリの居る部屋から少しずつ遠ざかっていく。音の方向からして、彼は二人が使う予定の寝室へと向かっているようだった。
(一言ぐらい声をかけてくれてもいいでしょうに)
すっかり汗もひき、むしろ少し肌寒くなってきた頃だった。夜になれば涼しくなるというのは本当だったらしい。つまり避暑地はお役御免というわけである。
「あとで聞けばいいか……」
そう呟いてアオギリは立ち上がり、廊下へと繋がる障子へと向かう。その途中で、マツブサが置いていったペットボトルとタオルを回収し、部屋を後にした。
そうしてマツブサが居るであろう寝室へと向かったアオギリだったが、その途中で首を傾げて立ち止まった。遠くから、誰かが暴れるような音が聞こえてきたからである。
それは寝室に近付けば近付くほど大きくなる。どうやらその音の発生源は寝室のようだった。アオギリの予想が正しければ中にはマツブサが居るはずだが、廊下の方が明るいこともあり、中の様子は分からない。
(何を暴れているんだ、子供じゃあるまいし……)
「何をしているんです、マツブサ――」
そう言ってアオギリは寝室の障子を開けた。そしてマツブサの先ほどの行動の真意を確かめるべく言葉を続けようとしたのだが、それはほかならぬマツブサの叫び声に遮られることになった。
「あー! 馬鹿、開けるな!」
「は?」
障子を開けた途端、大きな影がアオギリへと襲いかかった。咄嗟に飛び退きそれを払い除け部屋の中を確認したアオギリは、飛び回るそれらに唖然とする。ばたばたと両腕を動かしながらアオギリの元へと歩いてきたマツブサは、ぺろ、と舌を出して言った。
「悪い、焚き忘れた」
「このっ……部屋の明かりを消せ!」
「電球はもう占拠されてる」
「焼き払え!」
「家も燃えるだろ!」
「では凍らせましょう、トドゼルガ!」
「やめろ馬鹿、布団まで凍るだろうが!? ……いや、夏だしいいか……?」
「いいわけないだろう」
「急に落ち着くな馬鹿、お前が言い出したんだよ」
結局この日、アオギリはマツブサに話を聞くことはできなかった。――部屋の明かりにつられて外から飛び込んできた大量の虫ポケモンへの対処に、実に三十分もの時間を要したからである。