それは、
ある晴れた日の。

第5話

 月が沈み、東の空が白み始める頃になってもまだ、イヴァンは目を覚まさなかった。彼が倒れてから、既に二十時間は経過しているというのに。
 呼吸はある、表情も穏やかだ。ともすれば死人のように見える寝顔だが、彼は確実に生きている。 だから、今のマツブサにできることは何もなかった。ただ、眠りにつくこの男が目を覚ますことを待つ以外には、もう何も。

「腹減ったなあ」

 そうぼやいて、マツブサはイヴァンの隣に横たわる。わざとらしく砂埃を撒き散らしてみたが、やはりイヴァンが目を覚ます様子はなかった。
 彼の顔に付いた砂をぱっぱと払ってやって、マツブサは寝転がりながら空を見上げる。月は沈み星は姿を消して、しかしまだ太陽は水平線から顔を見せないこの空に見るべきものなどなかったが、それ以外にやることがなかった。ああ、思考を巡らせることくらいならできるか。

「なー、腹減ったー」

 もう一度言ってみても、イヴァンからの返答などあるはずもなく。今朝のうちにイヴァンが作ってくれた昼食など、もう食べ終わってしまった。今世でも、はるか昔の前世でも、なんだかんだとあの男は食事を作ってくれたなあと、ぐうぐうと鳴る腹をさする。波の音を聴きながら、マツブサはぴくりとも動かないイヴァンを横目に空を見上げ続けた。
 このままこの男が目を覚まさなかったらどうしようか。いっそのこと、二人仲良く海にでも沈んでしまおうか。そんな、実際にはできもしないだろうことをつらつらと考えて、マツブサはただひたすらに彼の目覚めを待った。我ながら健気なものだ、実際はそんな可愛らしいものではないのだが。
 そうして、太陽も昇り始めた頃だった。空を見上げるのにも飽きて閉じていたまぶたを焼きつくさんとばかりに輝く朝日に、閉じているはずのマツブサの目が眩む。太陽の光から目を逸らすために顔をイヴァンの方に向けた、その時だった。

「うっ……」
「!」

 隣から聞こえたうめき声に、マツブサはがばりと飛び起きる。そして、顔を顰めながらも少しずつ開かれていく彼の瞳を食い入るように見つめた。
 薄らと開かれた瞳は、飛び込んでくる朝日がよほど眩しかったようで、すぐに閉ざされる。重たそうに右腕を動かして目元を覆いながら、彼は何度か瞬きを繰り返した。腕の隙間から垣間見える青い瞳は、未だ焦点を結ばずあちらこちらをさまよっている。
 ふいに、その視線がマツブサの方を向いた。

「…………」

 彼は何も言わず、ただ静かにマツブサを見ていた。そこに居るのがマツブサであると理解している様子ではない。目を引く赤色が視界の端に飛び込んできたから目を向けた、それくらいの意識だろう。マツブサの方を向きながらも、視線が未だに揺らめいているのがその証拠だ。
(……もしこいつが、今もイヴァンのままなら)
 あれだけの行動を起こしてもなお、アオギリが何も思い出さないというのなら、――そのときは。
 マツブサは気付かれないように、隠し持っていたモンスターボールに手をかける。胡乱な目をしてマツブサを見つめ続けるこの男は、イヴァンか、それとも。

「……マツブサ」

 呼びかける小さな声は、イヴァンであるともアオギリであるともとれる声だ。揺れ動く瞳が、やがてはっきりとマツブサを捉え、ぱちぱちと瞬きをした。そしてマツブサをまっすぐ見据えたまま、彼が口を開く。

「貴方、断酒できたんですね」
「…………は?」

 想像もしていなかった言葉に、マツブサは目も口も丸くする。対して男は、眉根を寄せながら言葉を続けた。

「今まで何度言っても聞かなかったのに。頭でも打ちましたか?」
「……ぁあ?」

 喧嘩売ってんのか、おいコラ。


***


「言うに事欠いて、一言目があれかよ」
「仕方ないでしょう。貴方、この人生ではほとんど飲んでいないじゃないですか」

 マツブサに抓られて赤くなった頬を擦りながら、男が――アオギリが言う。これ見よがしに呆れた顔をするその男に、今度はその耳を引っ張ってやろうかとマツブサは手を伸ばしたが、届く寸前でぱしりと弾かれた。

「痛いからやめなさい。これでも数十時間寝ていた身なんですよ」
「弾かれたこっちの手も痛てぇんだけど」
「それは貴方が手を弾かれるようなことをするからです、自業自得です」

 つんとすました顔をして言うアオギリの横顔を、マツブサは弾かれた手を押さえながらそっと盗み見た。朝日を照り返す海を眩しそうに見つめるその瞳は、やはりイヴァンのそれとは違い、どこか暗い色をしている。
(――イヴァン)
 目の前の男がアオギリとしての記憶を取り戻してから、イヴァンと思しき人格はまったく表に出てこない。あの美しく澄んだ瞳で世界を見ていたあの男は、今どこにいるのだろう。

「なあ、アオギリ」
「なんです」
「イヴァンはどこいったんだ?」

 マツブサの問いかけに、アオギリは何度か瞬きをした。そしてムッとした顔をして口を開く。

「気になるんですか」
「そりゃちょっとは気になるだろ」
「…………」
「……なんだってそんなに不満そうなんだ、お前」
「なんでもありません」

 いや、なんでもないこたねえだろ、その顔は。
 マツブサはそう言いたかったのだが、アオギリが自身の胸に手をあてて目を閉じたのでやめた。
 そして、五秒もしないうちに再びアオギリの目が開く。

「おそらく居ませんね」
「分かんのか? 居るとか居ないとか」
「断言はできませんが、少なくとも私の思考を邪魔立てする存在は居ないようです」
「へえー……」

 納得しかけて、しかしマツブサは『うん?』と首を捻る。

「……って言うことはよ、お前はイヴァンのこと邪魔したりしてたのか?」
「この海に着いてからは、それはもう。昨晩、こちらからあちらに影響を及ぼせると分かりましたので、早々に彼にはご退場願おうかと思いましてね」
「……ひでえ奴」
「おや」

 その言葉は心外だと、アオギリは片眉を上げてマツブサを見遣った。

「その後押しをしたのは貴方でしょうに」
「そりゃあまぁ、そうだけどよ」

 マツブサは特段、常識や良識といったものが欠けているわけではない。持ってはいるが使わないだけである。
 だからアオギリとマツブサの言い分が、行動がどれほど身勝手なものであるかくらいはマツブサとて理解していた。今世の体はイヴァンのものであって、けっしてアオギリのものではない。むしろ邪魔者なのはアオギリの方なのだから。
 しかしイヴァンがいなくなりアオギリがその体の主導権を握ったことで、イヴァンの記憶はそっくりそのままアオギリに引き継がれたらしい。試しに色々と話を振ってみたが、特に違和感なく会話は成立した。やはりアオギリは、イヴァンの居場所を奪ったということになるのだろう。――しかし、そのことを気にするような人間なら、伝説のポケモンを従えて世界の支配を求めたりはしないのだ。

「楽しそうだったじゃありませんか」

 視線を再び海に戻してそう言うアオギリに、マツブサは眉根を寄せる。

「あ? 何がだよ」
「彼とともに過ごす日々も、悪くなかったのでしょう? ……それなのに、貴方は私を呼び戻した」
「…………」
「ただの暇つぶしというには、あまりにも長い時間だったはずです。――なにか理由でも?」
「…………」

 アオギリの問いに、マツブサは答えない。――すぐには、答えられなかった。
(あるに決まってんだろ)
 アオギリがこちらを見ていないのをいいことに、マツブサは抱えた膝の上に顎を乗せてそっぽを向いた。まるで子供が拗ねているようだと自分でも思ったが、実際、マツブサの心境はそれに近かった。いったい何のために、ここまで来たと思っているのか。
 言いたいことがあった。この男に、何度再会しても綺麗さっぱりマツブサのことを忘れて生きているこの男に、言ってやりたいことがあった。何もないなら、彼に言いたいこともやりたいこともないのならこんなつまらないこと、誰がやるものか。自分の人生を面白おかしく生きて、からから笑いながらとっとと死んでいただろう。それを繰り返していただろう。
 何度も何度も転生して、その度にアオギリの紛い物と出会い。ついには会おうとすることすらやめて自分の人生を生きようとしても、その結果は自身にとって散々なものだった。不幸に見舞われたわけではない、順風満帆な人生そのものだったが、だからこそ、マツブサにとって散々な人生だった。
(これを逃したら、もう次はねえかもな)
 言いたいことを言うなら今だろう。そもそも、次があるかどうかさえ分からないのだ。待ち焦がれた時間がようやく訪れたというのに、それがあまりに唐突だったせいでマツブサはどこか夢見心地だった。
 そっとアオギリのほうを盗み見れば、いつの間にかこちらを見ていた彼とばちりと目が合い、マツブサはぎょっとする。……この男の眼力、もう少しどうにかならないものだろうか。

「怖えよ」
「貴方が答えないからでしょう」

 だからといってそんな睨まなくてもいいだろうに。どうもマツブサを見るときのアオギリの目は、マツブサを呑み込まんとする意思が強すぎる。

「言いたくないんですか」
「そういうんじゃねえよ。何て言おうか考えてただけだ」

 大嘘もいいところだった。言いたいことなんてもう決まっているのだから。ただ、そう、アオギリの目を見据えて、それが言えるかどうかの話だった。
(くそ、言ってやれ)
 次がないならそこまでだ。次があるならそこからだ。今考えても埒なんてあかねえだろう、羞恥心なんぞ捨てちまえ。
 今、オレがどうしたいのか。
 いつだってオレにあるのは、それだけだっただろうが。

「聞いとけよ、アオギリ」

 マツブサはアオギリを見据える。いっそ睨みつけるように彼の目を見てやれば、彼は明らかに雰囲気の変わったマツブサを警戒するように自身の腰に手を伸ばした。しかし残念なことに、そこにモンスターボールはない。イヴァンはポケモンを持ち歩きはしなかったのだ。

「お前にとっちゃ大したことねえ話だろうがな、オレにとっちゃ大事な話だ」

 そして、マツブサは息を大きく吸った。
 さあ、一息に語ってやろう。くだらない話だ、そんなことのためにと、鼻で笑われるような話だ。
 それでも自分にとっては、生きていく上でこれ以上ないくらい重要な要素だったのだ。――アオギリという男は。


「前の記憶を持ったまま生まれ変わっちまってよ。仕方ねえから色んな人生を送ってみたわけだ。
「裏社会の幹部だの組長だの、吐き気がするくらいつまんねえ金持ちの坊ちゃんだの学生だの。
「そうなっちまったからには仕方ねえ、その人生を楽しまなきゃ損だろ? 理由なんざ分からなくても、今目の前にあるもんを笑いとばすことはできらぁな。
「……でもダメだった。
「お前との時間ほど楽しいことなんてなかった。
「お前のせいだぜ。お前なんかと出会っちまったから、オレは世界を楽しめなくなった。
「お前と、まあ、なんだ、死ぬ? ってのはなんか違えな。まあ、お互いに融合して、またバラバラになって、何度か繰り返していつの間にか消えちまったろ? その時はな、まだ楽しめることがほかにあるだろうって思ってんだ。
「実際そうだった。生まれ変わった世界はいつも、オレたちのいた世界とは違ったからよ。
「なんだかんだ面白かったぜ? 楽しいことが、興味のあることがなかったわけじゃねえんだ。記憶がねえ紛いもんとはいえ、お前も居たし。
「でも出会っちまってたんだよな、オレは。
「これ以上ないってくらい楽しいやつに。紛いもんじゃ満足できねえくらい面白いやつに。
「そいつと比較しちまったら、もうダメだった。人間、贅沢覚えちまったら、もう戻れねえのよ。
「おめえのことなんざ忘れて生きてやろうとしたことも、そりゃあるさ。
「だがまあ、結果は大失敗だ! 何やってもつまんねえの。
「良いことも悪いことも、その世界で思いつく限り全部やってよ、それでもつまんねえ。世界中燃やしてやったよ、それでもなーんにも楽しくねえ。
「何やっててもちらつくんだよ、お前が。世界中燃やそうとしてんだから、当然それを止めにくるやつもいてな? そいつらのまあ、つまらねえこと!
「あれがお前だったら絶対楽しかったな、あの世界。……ああ、くそ。今みたいにな、何やっててもお前が出てくるんだよ。
「ねえもん欲しがってどうするよ、分かってんならとっとと別のに乗り換えろって話だろ? それが出来ねえのよ、それに気付いちまったらもうダメだった。
「こんなのよ、オレじゃねえよなあ? 自分でもびっくりしてるわけ。もしかしてお前がまだ混ざってんのかね?
「あーあ。……ちくしょう、言ってて腹立ってきた。責任とれよな!」


 さあ言い切ってやったぞと、マツブサは満足気に笑う。もともと、アオギリに対して思ったことを胸の内に留めておくなどマツブサの性に合わなかったのだ。
 そしてなにより、マツブサの言葉を聞くにつれて、アオギリの顔が次第に驚きに染まっていく様を隣でまじまじと見ることができた。それだけでもう、話をした意味があるというものだ。仏頂面のこの男が、様々な感情に揺り動かされその表情を歪める瞬間が、マツブサは一等好きだった。
 マツブサの言葉に、アオギリは目を見開いたまま黙りこくっている。途中、彼は何度か口は開いたが、その口から言葉が紡がれることはなく、最後には静かに閉じられた。
 アオギリは、彼に言葉を挟ませまいと一気に言い募ったマツブサの言葉を、ゆっくり噛み砕いているようだった。その視線がマツブサから逸らされ、その瞳は再度、海に向けられる。つい先ほどまで顔を覗かせたばかりだと思っていた太陽が、その丸い姿を余すところなく現し、二人を照らしている。

「そうですか」

 呟く声は、どこか震えているようで。海を見つめるその瞳は、眩しそうに細められていて。

「――そう、でしたか」

 そしてアオギリは、そっとその表情を緩め、ひっそりと笑ったのだ。