それは、
ある晴れた日の。

第4話

「……着いたのか」

 イヴァンがいそいそと車から降りていく。車の後方に回り、トランクを勢いよく開けて中の荷物をがさがさと取り出していた。
 バックミラーに映るその光景をぼんやりと眺めていたマツブサは、その視線を海へと移した。寂れた駐車場から少し離れたところにあるその海に人の姿はない。おあつらえ向きのシチュエーションだった。――出来すぎだ。
 マツブサの口をついて出た小さな声は、浮き足立っているイヴァンには聞こえなかったことだろう。開けられたトランクから聞こえてくるさざ波の音は、想像していたよりもずっと大きかった。
(何が違うんだ)
 事故にも遭わず、予定も入らず、誰かに殺されることもなく。そうなることが当たり前だとでもいうように、車は目的地であるあの海岸線へと二人を運んだ。
(これまでと、一体何が)
 車をここまで運転してきたのはマツブサだ。道中に何かが起こるなどと思っていないイヴァンが運転するよりも、自分が運転した方がいざというときに身を守ることができると思った。車中で交わされる当たり障りのない会話のなか、頭の片隅にはいつも二人の死がまとわりついていた。
 そして今、どこかで諦めていたこの光景を、マツブサは目の当たりにしている。いつ終わるともしれぬこの関係が、この転生が、こんなにあっさりと終わりを迎えるというのか。
 なにか劇的なことが起きるでもない、きっかけらしいきっかけもない。ただの週末、マツブサが適当に決めた予定日に、この海を訪れただけだ。

「マツブサ?」
「……なんでもねえ、行こうぜ」

 海を見つめたまま全く動かないマツブサに訝しんだのたろう、イヴァンがトランクから顔をのぞかせて呼びかけてくる。軽く首を横に振りながらそれに答えて、マツブサは車を降りた。さあ、鬼が出るか蛇が出るか。

 どちらにせよ、これまでの全てが今日で終わらないのなら、もうこの人生に用はない。


***


 イヴァンはぞくりと粟立つ肌を擦りながら、海へと歩みを進めていく。――海に近づきたくないと思ったのは、生まれて初めてのことだった。
 軽快な足取りで先を行くマツブサと違って、イヴァンの足はひどく遅い。普段の彼ならば誰よりも早く砂浜に足を乗せ、潮風を浴びながら広大な海を眺めているというのに、今の彼は、それがとても恐ろしいことのように感じていた。
 最初こそ輝く海を見つめながら歩いていたイヴァンだったが、ついには顔を上げていることすらできなくなる。歩くために左右交互に繰り出される己の足を見つめ、それでもイヴァンは先を目指した。頼りになるのは海の音と、それに微かに混じるマツブサの足音だ。
(行きたくない)
 頭が痛い。これ以上ないほどにゆっくりと歩いているというのに、イヴァンの呼吸は全力で走り終えた後のように浅く、早かった。
 自身の体に異常が起きているのは明白だ。それでも、イヴァンの足は自然と海へと向かっている。――自身が子供の頃から、どうしようもなく海に惹かれていることは分かっていた。
 しかし、これは明らかに度を超している。
 本能的な恐怖にさえ打ち勝ってしまう欲望は身の破滅しかもたらさないと分かっているのに、イヴァンの足は止まらない。……止められない。
 海の匂いが強くなる。近づくにつれ大きくなる波の音をかき消さんばかりに、脈打つ己の心臓が痛い。
 先を歩くマツブサの足音が変わった。砂を踏む音だ。きっと、顔をあげればすぐ目の前に、あの青い世界が広がっているのだろう。
 だからこそ、イヴァンは顔をあげられない。それを見てしまったら、何かが終わると、彼は半ば確信していた。
 その終わりを、恐れる気持ちと望む気持ちとの二律背反に、頭が割れそうだった。

「イヴァン」

 呼びかけてくるマツブサの声は平坦で、砂浜を前に立ち尽くすイヴァンに対して何ら疑問を抱いている様子はない。むしろその声色は、イヴァンがこのような反応をすることを分かっていたかのように静かだった。

「――イヴァン」

 マツブサの足音が近付いてくる。

「どうした? らしくねえな、海に飛びつかないお前なんてよ」

 ごもっともだと、イヴァン自身そう思っている。それでも動けないのだから仕方ないではないか。

「地元の奴しか来ねえような場所だが、なかなか綺麗なもんだぜ」

 そうだろうとも。海はいつだって美しい。どこで見ようと、誰と見ようと、偉大なる海の力は変わらない。
(――“力”?)
 無意識に浮かんだその言葉が、これまで海に抱いてきた感情とはあまりにもかけ離れていることにイヴァンは気付いた。
 広大な海のきらめきと、現在の科学力をもってしても暴くことができないその神秘性。イヴァンが海に惹かれた理由はそうしたものであって、決して力などではない。海の持つ力は災害となって人類を襲う恐ろしいものだ、そこに美しさもなにもないのに、何故いま、自分はその力に言及した?
 それについて深く考える間もなく、マツブサが話しかけてくる。

「オレはな、イヴァン。別に海が嫌いってわけじゃねえんだ」

 足元を見ていたイヴァンの瞳に、マツブサの靴が映る。

「海なんてもん以上に、マグマだとか炎だとかで世界を焼き尽くす方が好きってだけでよ」
「……マツブサ?」
「いや、好きってのもなんか違ぇな?」

 イヴァンの問いに答えることなく、マツブサは一人、首を傾げているようだった。まるで目の前にイヴァンなど居ないかのように、まるで独り言を呟いているだけなのだとでも言うように。

「そっちの方が楽しいだろって話さ。カガリの奴が、炎に飲み込まれていく瞬間が一番美しいんだっつってたのを聞いたことがあるが、あれに近ぇかな」

 まあ、オレは美しさとかは特にいらねえけどな。そういうのも全部呑み込んでこそだろ。
 そうぼやきながら、マツブサがそっとイヴァンの頬に手を伸ばした。指先でイヴァンの頬を何度かつついて、何事もなかったかのようにその手を下ろす。

「お前はどうなんだよ」
「……マツブサ、あなたは何を言って――」
「お前は海に何を見たんだ」

 ――今、目の前にいるのは本当にマツブサだろうか。
 こちらの話が通じない。話を聞いてくれない。出会って数年が経つが、こんなマツブサは初めてだった。
(…………本当に?)
 ふと脳内に浮かんだその疑問は、イヴァンの心臓を凍らせるには十分すぎた。――こんなことが、前にもあったような気がする。
 それも一度ではなく、何度も。イヴァンは恐怖に圧迫されている思考の中、引っかかっているなにかを手繰り寄せようと目を閉じる。
 過去に何度か同じような会話を、いや、感覚を覚えたことがあるはずだ。それは、決してこの四年間のものではない。もっと、もっと昔の、――昔の?
(いつの?)
 昔なんてない、それ以前にマツブサと出会ったことなんて一度も。

「オレ達が初めて出会ったのも、こんな場所だったよな」

 マツブサの言葉にイヴァンは首を振る。――違う、初めて出会ったのは、あの研究所の中だ。

「お前が浜辺にいたのは、なんだっけな、アジトを作る場所を探してたんだったか? まだ結成して間もなかったらしいなぁ、おめえんとこは」

 アジト?
 結成?
 研究所のことだろうか、しかしあれは前所長から譲り受けた場所だ。自身が作った場所ではない。

「お互いがお互いを知らなかった唯一の時間だ。オレ達がそれぞれ、敵対組織のリーダーだってことを知らずに出会って話した場所だ、ここは」

 敵対。穏やかではないその言葉にイヴァンは驚き目を見開いたが、それでも顔は上げられないまま問いかける。

「私とあなたが、敵?」
「おう、そうさ。ドンパチやったんだぜ」

 覚えてねえだろうけどな。――そう呟いたマツブサの手が、俯いたままのイヴァンの頬に再び触れる。彼の親指が、イヴァンの頬をそっと撫でた。時々、柔く爪を立ててくるその手が、どこか懐かしい。こんなこと、されたことなどないはずなのに。
(敵。……私と、マツブサが)
 そんなことあるはずがないと反発する自分と、マツブサの言葉を受け入れる自分がいる。彼の言葉を受け入れている『自分』とは、一体誰なのだろう。したことのない会話を、見たことのない景色を、触れたことのない温度を、知っている『誰か』だろうか。その『誰か』に、マツブサは話しかけているのだろうか。

「そろそろ思い出してもいい頃だろ」

 マツブサの手に力がこもる。イヴァンの顔を上げさせようとする。

「オレはもう、おめえを待つのにも飽きたんだ」

 イヴァンは首を横に振りながらそれに抵抗した。私はお前の知る『誰か』ではない。
(私は私だ。……そのはずだ)
 確証が揺らぐ。自分は自分だと、言い切るにはあまりにも、知らない感覚が多すぎる。知らないはずだ、そのはずなのだ。

「お前が見るべきもんは、大地じゃなくて海だろうが」

 ふっとマツブサの手から力が抜ける。先ほどまで己に加えられていた力が無くなったことで、首を振りながら抵抗していたイヴァンの体がふらついた。
 そして、マツブサの言葉を、行動を、イヴァンが理解するよりも先に、その言葉は放たれた。


「――アオギリ」


 嗚呼。
 やっと、呼ばれた。

 確かに、そう思った。弾かれたように顔を上げて、そこで彼は我に返る。――思ったのは、本当に自分だったのだろうか。
 イヴァンの両頬に添えられていたマツブサの手に再び力がこもった。お前が見るべきなのはそこだとでも言うように、彼はイヴァンの顔を掴んで離さない。
 先ほどまで確かに感じていた、あの本能的な恐怖は既になかった。マツブサの言葉が荒れ狂う波のようにイヴァンを襲い、呑み込んでしまったかのようにそれは消え失せた。
 視界の先、青く広がる海と空に、目の前の男の赤色が混じり合い、溶けていく。

 ――それがイヴァンの見た、最後の景色だった。