それは、
ある晴れた日の。

第3話

 沈んでいた。
 暗い水のなか、何故沈んでいるのかは分からなかったが、確かにイヴァンは沈んでいた。
 温度はない。これだけ暗ければさぞ冷たかろうと目が覚めたときには思っていたが、どれだけ時間が経とうとも、冷気が彼の体を痛めつけることはなかった。普通の水なら目を開けるだけでも痛みを伴うだろうが、この場所にいたってはそれもない。
(どこだ、ここは)
 水の中にいるのは確かだったが、それ以外には何も分からない。自分はなぜここに居るのだろう、ここに来るまでに何をしていただろうか。
(……ああ、夢か)
 明日は、マツブサとともに隣町の海に行くことになっている。それに備えて、いつもよりも少し早めに眠りについたことを思い出した。水の中にいるのは、明日の海を楽しみにしていたからだろうか。だからといって、こんな暗闇に放り投げなくてもいいだろうに。
 水の中でも息ができるなら声も出せるだろうと考え、イヴァンは口を開いて色々と喋ってみる。しかし口から出るのは泡ばかりだった。明瞭な言葉にはならずとも振動くらいは水を伝って耳に届くはずだが、それすらも起こらない。
 そこまで確認して、ようやくイヴァンは目の前にあるものに気が付いた。
(――石?)
 それは、丸い石のようなものだった。イヴァンの身長よりひとつ高いところにあるその石は、淡い青色の光を放っている。これだけ近くで見ても全く目が痛くないのは、ここが夢の中だからか、それとも光が弱すぎるからなのか。
 ただの水の中であれば、石のように重たい物質はそのまま沈んでいくはずだが、ここは夢の中。石は重力に逆らいその場に留まったまま、ただ静かに光っていた。
(…………)
 そのままぼんやりとその石を眺めていたイヴァンだったが、自然と伸びていた己の両手が視界に入り込み、はっとしてその手を引っ込める。――触れてはいけない、そんな気がした。
 それでもその青色から目を離す事が出来ず、イヴァンは半ば食い入るようにそれを見つめ続けた。手が伸びそうになる、その度にもう片方の手でそれを抑えることが何度も続いた。
(――どこかで、見たような)
 宝石のサファイアによく似た色合いをしている石だった。しかし、イヴァンは実際にその宝石を見たことはない。テレビや写真で見たことがあるくらいだったが、それでも分かる。この大きさは、明らかに異質だと。
 美しく磨き込まれていることはこの位置からでも分かったので、人為的に作られたものであることは確かだ。だが、やはりイヴァンには見覚えがない。それにもかかわらず、自分はこの石を知っているような気がしてならなかった。
(…………? あれは――)
 じっとその青い石を眺め続けたイヴァンだったが、ふと、その青色の中に別の色が混ざっていることに気がついた。いつの間にか詰めていた息をごぼりと吐いて、イヴァンは目を細めさらに注意深くそれを観察する。
 石の中心に、赤色の光が小さく灯っていた。その光は、とてもゆっくりと点滅を繰り返している。ときには青い光に遮られて全く見えなくなることもあった。
(……青い石に、赤い光。……何故?)
 それも、石の中心に。その場所こそ、より青く輝かなければならない場所のはずなのに。
 夢の中だからだと、言ってしまえば話は終わりだ。夢の中なら人は空を飛び、海の中で呼吸をするのだから。
 しかし、どうしてもその違和感が拭えないでいる。その赤色を取り除きたいと、純粋な青色を見たいと、確かにイヴァンは思っていた。
 自身の両手が、その石に伸びていくのを他人事のように眺めている。もはやこの手を止める者はいない。止めようとも、もう思えなかった。
(取り除かなければ)

 ――この『藍色』に、紅色は不要だ。

 イヴァンの右手が、青い石に触れたその瞬間。ゆらりとその青い石の表面が揺らぎ、そこから何かが流れ込んできたような感覚にイヴァンが咄嗟に飛び退いた、そのときだった。


***


「うっ、…………?」

 一気に細くなった視界と、見覚えのある照明。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、辺りを見渡せばそこは寝室だった。――目が覚めたのだ。
 息を吐いても泡は出ない。きっと、空中に石を放り投げれば、それは正しく地面へと落ちるのだろう。

「…………」

 イヴァンはゆっくりと体を起こし、自身の右手を見つめた。あの石に触れたときの感触が、今もそこに残っていた。
(――冷たくなかった)
 かといって、熱かったわけでもない。あの石には、熱さも冷たさもなく、ただ『触れた』という感覚だけがそこにあった。もしかしたらあの夢の中では、温度というものは存在しなかったのかもしれない。
 起きたばかりで霞んでいる視界のなか、しばらくの間自分の右手を眺めていたイヴァンだったが、横から強い光が差し込んできたことに思わず目をつむる。まぶたの裏の残像も消えた頃、そっと目を開けて窓に目を向ければ、ちょうど朝日が昇ってくるところだった。
(……海)
 イヴァンの自室から見えるその海は、東に位置している。そのため朝になれば、水平線から太陽が昇る姿を見ることができた。この家の中でも特に気に入ってる場所のひとつだ。
(……準備をしないと。そうだ、昼食も作らなければ)
 マツブサはどんな味が好きだっただろう。いつもこちらの味に合わせてもらっていたことを思い出し、イヴァンは今日の昼食にマツブサの好みだけを詰め合わせることにした。ベッドから立ち上がり、大きく伸びをひとつしてドアノブに手をかける。
 ふと、視線を落とした自身の右手が青く光ったような気がして、イヴァンはドアノブを回す手を止めた。
(なんだ?)
 くるくると手を右に、左に回転させながら何度見ても、それは普段通りの手だった。手を開いて閉じて、何の違和感もないことを確認する。

「気のせいか」

 寝惚けていると、あるはずのないものが見えることがある。それは人間誰しもあることだろうと思いながら、イヴァンは今度こそ寝室をあとにした。
 今日の海は、果たしてどんな色を見せてくれるのだろう。――夢で見たような、あの美しい藍色だといい。