それは、
ある晴れた日の。
第2話
その海は、その海岸線はマツブサにとって曰く付きだった。だからこそ、彼はアオギリをその場所に連れてきたかった。
そこで全てが終わり、そして始まるのだと、マツブサは確信していた。
***
「海ですか?」
構いませんよ、いつ行きますか?
そう言っていそいそとスケジュール帳を取り出すアオギリに――イヴァンに、マツブサはついつい苦笑してしまう。海のことになると、この男の瞳には小さな光が灯るのだ。
澱んだ欲望が渦巻く仄暗い光ではなく、美しく澄んだ海のような光。その美しさは、彼を彼たらしめる野望という餌がないことの、なによりの証左なのだが。
「仕事で毎週行ってるのに、そのうえ遊びにも行くんですね」
鼻歌でも歌いだしそうな声でイヴァンが言う。
「あなたも海が好きですねえ」
「…………」
その言葉に、マツブサはただ笑い返す。語る言葉をマツブサは持たなかった。
たとえ興味深いと、想像よりも面白いと思っていても。海とはマツブサにとって、あくまでも観察対象でしかない。アオギリを探すための手段であり、そして未知の世界を知り尽くしたいという知的好奇心を満たすものである。彼の海に注ぐ視線は、さながらモルモットを見下ろす研究員のそれと同じだ。興味はあれど、それまでだ。
(四年もいるんだぜ? オレたちは)
あまりに薄情じゃないかと、マツブサは内心舌を打つ。これならまだ、あのアオギリの方がよっぽどマツブサに有情だった。
イヴァンが見ているのは、所長としての彼が求める偶像のマツブサだ。誰よりも研究成果を上げ、調査にも率先して赴き、そのひらめきは時に研究所全体を突き動かす。そこまでする理由はただひとつ、海を愛するが故のもの。休日にはお茶会や鑑賞会、旅行にまで付き合ってくれる優秀な仲間、そして友人。
それが、このイヴァンから見たマツブサなのだ。そこから先を、暴こうとも思っていない。暴くものなどないとさえ。
(悪気はねえんだよな)
だからこそタチが悪い、とはよく言ったものだ。不快に思えどなんと言えばいいのか決めかねる。相手がアオギリでなければこんな凡庸な人間、とっとと見限って会ったことさえ忘れるものを――
「いつにします?」
マツブサがそんなことを考えているとは露とも知らないだろうイヴァンが、スケジュール帳を見ながら問いかける。今月は特に大きなイベントもなく、またお互いに論文の締め切りがあるわけでもないため比較的予定は空いていた。
「今週末」
「もちろん空いてますよ。私の家でお茶を飲んでからにしますか? それとも海を見ながら昼食としましょうか?」
「どっちでもいいぜ、おめえが楽な方にしな」
「それが一番困るんですけど」
困った顔をしながらも、イヴァンが予定を立てていく。
姿かたちに、海への執着。それら以外に、アオギリと似ているところなどない。それでもマツブサはここにいる。理由なんてひとつだった。
アオギリだからだ。
この男がアオギリだからだ。
それ以外にマツブサをここに留める理由などなかった。
姿が似ているだけの別人ではないか。分子レベルで融合した際の姿で、ここではない別の場所に居るのではないか。――そんな問答は、とっくの昔に終わっている。
親が違う、暮らした場所が違う、生まれた世界の価値観が違う。何もかもが異なるこの世界で、どうしたってこの男がアオギリだった。優秀であれどもどうしようもなく凡庸で、間違っても悪の組織なんて作らないような、こんな。
何かを凍らせることも燃え上がらせることもできない、マツブサにとってはまとわりついているだけで不快に思えるぬるい水のようなこの男が、この世界でのアオギリなのだ。それを見分けられる程度には、世界を重ねてきた。
「どこの海に行きますか? 南の方に?」
「いや、隣町のとこがいい」
「隣町の? なにか有名なものがあるわけでもないと思いますが……」
観光名所というわけでもなく、地元ならではの何かがあるわけでもない海だ、イヴァンが不思議に思うのも無理はない。それでも、マツブサはこの海に彼を連れてきたかった。
「構いませんよ。海はどこで見ようと美しいものですから」
美しくないのであれば美しくすれば良いのです。
「大きいゴミ袋や軍手も持っていきましょうかね」
いつの間にやらボランティア活動も予定に組み込まれてしまったが、マツブサにとってはどんな予定を立てられていようとどうでもよかった。
アオギリをあの海岸線に連れて行くこと。『連れて行くことが出来ること』――それが重要だった。
そうしなければ終わらない、そうしなければ始まらないのだ、きっと。――そろそろ、この不愉快な輪廻の輪から外れたっていいじゃないか。
***
最初はただの偶然だったと、マツブサは思い返す。
一度目の転生の際、一番近くの海だからと、親交を深める理由で彼を誘ってそこへ向かった。彼は警戒しつつも、人の多い場所だからと着いてきてくれたのだが、その途中でアオギリが事故に遭い、その日の予定はご破算となった。今度こそはともう一度二人で予定を立てたが、アオギリに外せない用事が入り、話は流れた。三度目の正直だと決めて二人は車に乗り、海に向かったその途中、事故に遭い、そこで記憶は途切れた。――今にして思えば、三度も自分に着いてきてくれるだけ、彼は心を許してくれていたのかもしれない。
二度目の転生の際は、その海岸線で彼に殺された。世界線が変わったにもかかわらず、岩の位置から砂浜の広さ、堤防の高さまでが全く同じであるそれに、驚いている間の出来事だった。
三度目の転生も、二度目とほとんど同じだった。唯一、二度目の転生と異なったのは、二人が幼なじみであったことだ。組織の目を盗んで二人で会ってはたわいもない話をして、遊びに行ったりもした。――結局、それを組織に勘づかれたのだろう。マツブサはアオギリに、その海岸線で殺された。
四度目、五度目の人生は特に何もなかった。結果的に彼と会うことがなかったマツブサは一人でその海に向かったのだが、なんの問題もなく辿り着いてしまった。事故に遭うことも殺されることもなく、ただ穏やかな海が、暮れる夕日が、マツブサを出迎えただけだった。
何があるのかは分からない、だがあの海には、海岸線にはたしかに何かがあるのだ。こうも偶然が重なれば、運命だの神だのを信じていないマツブサとて考慮に入れざるを得なかった。奇しくも己も輪廻転生などという現象に巻き込まれている、だからそれを受け入れることに、思っていたよりも抵抗はなかった。
マツブサとアオギリは、あの海になぜか近付くことが出来ない。あの海岸線だけが二人を拒絶していた。一人なら行ける、なのに二人ではそこに辿り着けない。予定が入るだけならまだしも、命さえ奪い取りにくるその不可思議な拒絶。
その原因に、心当たりがないわけではなかった。
(あの二匹)
海と大地の名を冠する伝説。いつかの二人が追い求め、一度は手にしたあのポケモンたち。
(神はお怒りです、ってか?)
ふざけんな、死んだら帳消しって言葉を知らねえのか。
こんなことを考えているからいつまで経っても終わらないのかもしれない。だからといってあの二匹に跪くなんてこと、したいと思わなければしようとも思わなかった。
***
「そういえば」
スケジュール帳に予定を書き込んでいたイヴァンがその手を止めて、ぱらぱらと手帳を捲る。最初のページまで辿り着いても目当ての情報がなかったらしい彼が、ふっと顔を上げた。
「私、この海には行ったことがないですね」
電車一本で行ける場所なのに。
「どんなに遠い海だって、一度は行ってみるんですけど……」
そう言って不思議そうに首を傾げるその姿に、そりゃあそうさとマツブサは笑った。