それは、
ある晴れた日の。
第1話
「こらこら、ゆっくり食べるんですよ」
その言葉を聞いているのかいないのか、アオギリの足元にいる小さなポケモンは大きくひと鳴きして、ぱちぱちと手を叩いた。口の周りにはきのみがくっついている。餌にありつけたのがよほど嬉しいのだろう。あるいは、飼い主に声をかけられたことが嬉しかったのか。それともその両方か。
タマザラシが、嬉しいときや楽しいときにするその仕草が彼は好きなのだという。その言葉に偽りはないようで、手を叩いて喜びを表すタマザラシを彼が愛おしげに見つめる姿を、マツブサは幾度となく目にしてきた。
「マツブサ」
呼びかけてくるその声の明るさには、やはり慣れたくないものだ。そんな感情はおくびにも出さず、マツブサは読んでいるふりをしていた本から顔を上げる。
「お、餌やり終わりか?」
「はい。お待たせしました」
ちらりとアオギリの背後を見遣れば、嬉しそうな顔をしてタマザラシがきのみを食べていた。食べている最中にまた手を叩いている。毎日食べているものなのに、何がそんなに嬉しいのだろう。
「私たちも食べましょうか」
「ん」
テーブルの上には、生クリームがたっぷり乗ったお茶菓子と紅茶が二人分並んでいる。マツブサはあまり甘いものが好きではないため既に胃が重たいが、それを目の前の男に伝えたことはない。
楽しそうなタマザラシの鳴き声が聞こえる。食べ終わっても楽しいらしかった。開け放たれた窓からはさざ波の音と、潮の香りが運ばれてくる。アオギリの静かな声と、マツブサの笑い声が合間にぽつぽつと漏れる。
アオギリの家で週末を、甘いお菓子を食べながら過ごすようになって、既に三年の月日が流れていた。
アオギリはまだ、マツブサのことを思い出していない。
***
今のマツブサは、アオギリが所長を務めている海洋研究所の研究員という立場で働いている。勤め始めて四年、話が合うこともあり、出会って一年が経つ頃には、共に食事をする仲になっていた。
当然、研究員などマツブサの性にはあわない。知識を蓄えることは好きな方だが、そもそもチームで動くこと自体が嫌いなのだ。自分が長としてチームを率いるならまだしも、誰かの下に付くなど本来ならば御免こうむる状況である。
だが、マグマ団頭領であったときのような出会い方は、相手を警戒させるだけで決して話ができる仲になれるものではないとマツブサは理解していた。一度目の転生の際は苦労したのだ。
一度目の転生の際は、アオギリの方も前世の記憶を覚えていると思い声をかけたのだが、実際のアオギリは何も覚えていなかった。
見知らぬ赤い髪の男が闇夜に乗じて、見知らぬ名前を呼びながら話しかけてくるという展開は、普通の人間にはあまりにも刺激が強すぎたらしい。その後、何度か彼と話をしようと会いに行ったものの、初対面での印象があまりにも悪く、ついぞアオギリの警戒心が解けることはなかった。――マグマ団・アクア団であった頃の出会い方は、あのアオギリだからこそ成り立っていたのだと改めて理解した。
そこで、マツブサは出会い方を変えることにした。己が己らしくあることはマツブサにとって重要なことだが、そのせいで目的を達成できないのでは意味がない。そのあたりの柔軟性は持ち合わせている。
まずマツブサは、アオギリなら海に関連する何かを仕事にしているに違いないと考えた。それが表の話であれ裏の話であれ、数多ある選択肢の中から一つ一つしらみ潰しに探していくわけにもいかない。だから最も彼の居る可能性が高い道に進むことにした。
今のマツブサはアオギリと敵対するつもりはない。よって、わざわざマグマ団を立ち上げる必要もない。立ち上げた方がアオギリの動向を探りやすいとは思ったが、彼が何も覚えていない以上、あちらからの接触は望めない。
しかしアオギリと話をするためには、何かに所属している方が都合がよかった。彼の仕事に近い組織に、あわよくば同じ組織に。
二度目と三度目の転生は、出会えはしたもののそれぞれが利害対立のある組織に所属してしまった。殺し合い、殺された。
四度目の転生は、そもそも出会えすらしなかった。
五度目の転生では、いっそのこと会おうとすることをやめてみることにした。マツブサはアオギリのことを唯一無二の存在だと思ってはいたが、だからといって彼がいなければならないわけではない。いなくても生きていけるはずだ、楽しめることは他にもあるのだから。多少は世界がつまらなく感じることになるだろう、しかしそれは承知の上だった。――結果は散々だったが。
(ちくしょう)
マツブサは一人、心の中でごちる。――次また会えたら手を組もうぜって、言いだしたのはおめえだろうがよ。
***
「実をいうとですね」
アオギリの声に、マツブサは茶菓子を食べる手を止めた。顔をあげれば、一足先に食べ終えていたアオギリの膝の上でタマザラシがすやすやと眠っている。
「あなたとこうして食事をする仲になっているなんて、数年前の私は思っていませんでした」
「あ? なんでだよ」
マツブサにとってそれは意外な言葉だった。今日までの記憶を軽く思い返してみても、特におかしな対応をした覚えはない。他の研究員とも良好な関係を築けていると自負しているし、チームに所属して二年目に執筆したアオギリとの合同論文も、学術誌に掲載され一定の成果を収めた。研究を進めていく中で議論が白熱することはあったが、特に不仲になるようなものでもなかったはずだ。
「あなたをチームに引き入れるために、色々と情報を集めていたんですよ。それをみるかぎり、あなたは研究以外に興味が無いようでしたから」
「あー……まぁ、ちょいと根を詰め過ぎてたとは自分でも思ってんだけどな」
椅子の背もたれに寄りかかり、マツブサは天井を見上げた。思えば、今世は研究ばかりしていた気がする。
元の世界よりも科学技術が発展している今世は、海底に電気ケーブルを流すためだとかトンネルを作るためだとかで、未知の世界であった海底をより深く調査する動きが興っていた。海洋学の道に進むにしても、大地への興味関心も捨てられなかったマツブサは結果としてその間を取る道を選んだことになるが、これが意外と面白かったのだ。
元の世界ではまだ未発達だった分野。その最先端を調査し解明していく過程は、退屈と既知を何より嫌うマツブサにとって興味深いものだった。
「それが今では、ともに食事をする仲にまで。やはり情報を鵜呑みにしてはいけませんね」
しみじみとそう言って、アオギリはタマザラシに「ねえ?」と呼びかける。眠るタマザラシには聞こえていないはずだが、主の声に無意識で反応したのか、タマザラシは小さく「たぁ」と鳴いた。
その、一般的には穏やかな光景と呼ばれるであろうそれから視線を外し、マツブサは皿の上に残っていた最後の一切れを口へと運ぶ。――甘いものは苦手だ。後に残るその重さが、喉を潤してもなおまとわりつくそれが、どうにも受け付けなかった。
茶菓子のように甘ったるいこの時間に、吐き気がした。
「マツブサ?」
呼びかける声に、沈んでいた意識が浮上する。アオギリの方を見れば、怪訝な顔をした彼と目が合った。
「大丈夫ですか? 口に合わなかったでしょうか」
「いや、何でもねえ。気にすんな、オレは不味いもんは素直に不味いって言うからよ」
「それはそれで考えものなんですけど」
笑うアオギリの顔の、なんと楽しそうなことか。
どんな姿であろうとアオギリはアオギリであると、姿ではなくその強さに、その在り方に惹かれたのだと思っていた。事実その通りなのだが、姿が同じで中身がこうも違うと、ここまで嫌悪感を抱くものなのか。いっそ全く違う姿ならまだ受け入れることが出来ただろう、なのになぜ、こうも瓜二つに生まれ変わったのか。
そして何故、自分たちはこの不可思議な転生を繰り返しているのだろうか。分からないまま、マツブサは七度目の人生を歩んでいる。
「さて」
膝の上のタマザラシをそっと抱きかかえて、アオギリが席を立つ。
「この子を寝床に連れていきますね」
「おー。オレは一足先にテレビつけとくわ」
「よろしくお願いします」
「今日はどんな映画なんだ?」
「トドゼルガの群れを追ったドキュメンタリー映画です」
「第二弾かよ」
「新作が出てしまいましたので、これは見なければと」
「次はバクーダのやつにしてくれ」
「フフフ、あれば借りてきます」
タマザラシを起こさないように声を殺して笑うその仕草に、ほんの少し。
ほんの少しだけ、あの男が浮かべていた微笑が重なったような気がして、どうしようもなくなったマツブサは目を逸らした。――一体いつまで続くんだ、これは。
(いっそ今度は、オレがお前を殺せばいいのか?)
それもいいかもしれない、なんてできるはずもないことを考えては、そんな感情をおくびにも出さずにマツブサは笑う。自分は随分と追いつめられているらしい。不快に思うなら逃げてしまえばいい、その考えを否定するほどちゃちなプライドは持ち合わせてはいないのだ。
それでもマツブサはここにいる。もう四年も居続けている。全ては、あの男に伝えることがあるからだ。八つ当たりのようなそれを、マツブサはあの男にぶつけてやりたかった。
常人よりも精神力はある方だ。それでもいつかはすり減るものだと知った。七度目の人生、六度目の転生。繰り返せば強靭な精神も揺らぎ始める。代わり映えのない人生と、時折視界を掠めるあの男の影。それを覆い隠す、似ても似つかぬ目の前の男。
揺らぐはずもないと思っていた己の中の大地が、少しずつ軋み崩れ始める音を、確かにマツブサは聞いていた。
そんな、終わりの見えない道を進むほかない彼にとって唯一、救いと呼べたものは――
「イヴァン」
背後からの呼び声に、彼が振り返る。麗らかな外の光を反射するその瞳には、やはり一片の陰りもなく。
「どうかしましたか?」
もしも己が、その目を真正面から受け止められるような人間なら。そもそもあの男を探し回るような真似はしなかっただろうに。
「……来週は、お前と酒が飲みてえな」
「お酒ですか?」
あなたもお酒が飲めたんですね。
「いいですよ。いつも付き合ってもらっていますし、奮発して、いいお酒でも買っちゃいましょうか」
そう言って微笑むこの男の名前が、『アオギリ』ではなかったことだ。