それは、
ある晴れた日の。

プロローグ

 聞き慣れたアラームの音で目が覚める。いつもなら音を止めたあと、気分が乗らなければそのまま二度寝を決め込んでいるわけだが、今日はそうもいかない。マツブサにとって今日は、生まれてこの方ずっと待ち望んでいた日なのだから。
 勢いよく体を起こし、シャワーを浴びに風呂場へと向かう。面倒だからと、ついでにそこで歯磨きも髭剃りも済ませてしまうことにした。梅雨明けのこの時期の暑さは結構堪える。
 汗を流してさっぱりしたあとはきちんと髪も乾かした。普段は面倒がってやらないが、第一印象の大切さを身をもって知っている彼は、見た目に関しては細かいところでも手は抜くまいと決めている。それで痛い目を見たのだ、はるか昔に。
 髪を乾かしたら食事の準備だ。とはいえ、朝食はいつも通り、適当に焼いたパンを口に放り込むだけ。食えたら何でもいい、手を抜くところはきっちり抜く。ただでさえ慣れないことをしている自覚はあるのだから、肩の力を抜けるところは抜くべきだ。
 もう一度歯磨きをして、服を着替える。清潔感と真面目な雰囲気を大切に。顔付きと髪色からか、まともな職に就いているとは思ってもらえないことが多いので、せめて服装だけはと揃えた一着だった。過去に一度、以前の職場に着ていったがなかなか評判の良かったものだから、きっと問題ないだろう。慣れないアイロンがけの練習のために、何着かの服が犠牲になったことには目をつぶることにする。今日、この一着さえ着ることができれば問題ないのだから。
 鏡の前に立ち、髪を整える。いつもは下ろしている前髪も、今日はきっちり上げることにしていた。少しでも、あの男に気付いてもらえるように。
 まるで恋する乙女のようだと自嘲する。この感情は、そんな甘酸っぱいものではない。執念でしかないのだ、これは。
 今度こそ、今度こそはと浅ましくもあの男の存在を求めるこの感情は、そんな美しいものではないのだ。
 全ての準備を終え、壁にかけられた時計を見る。予定通りの時間だった。これから家を出れば、約束の時間には十分に間に合うだろう。

「今回はどうだろなぁ」

 期待しない心と、期待したい心。せめぎ合うそれらを胸の内に抱えて、マツブサは家を飛び出した。今度こそ、あの男と話をするために。


***


 海洋研究所。その所長室。
 白と青を基調とした、この明るくも静かな部屋にマツブサは案内された。
 部屋にはマツブサ以外の誰もいない。会う予定だった所長は現在席を外しているらしく、五分もせずに来るはずだからと先にこの部屋へと通されたのだ。壁際には水槽があり、机の上は綺麗に整頓されている。けれど使用感はある。あの男らしい部屋だと思った。そしてどこか、らしくない部屋だとも思った。
 柄にもなく緊張しているらしい自分にため息をついて、マツブサは天井を見上げた。シーリングライトが目に痛い。目を閉じても、白い部屋に反射する光がまぶたを焼いた。この明るさは、あの男らしくない要素のひとつだ。暗い部屋を一等好む男だった。
 椅子に背を預けて、マツブサはただ、目を閉じ続ける。空調の音しか聞こえない部屋に、自身の心臓の音がいやに響いていた。緊張が解ける様子はない。
 しばらく待っていると、小走りの足音が部屋へと近付いてきた。――ああ、走り方もよく似ている。
 走っているにも関わらず、変に規則正しいその音。それに引きずられるように、マツブサも姿勢を正した。
 がちゃりとドアノブが回される音が部屋に響く。そして、一人の男が部屋へと飛び込んできた。

「マツブサさん、ですね。お待たせいたしました」

 息の上がった声で開口一番、彼の口から発された言葉に、彼の浮かべているその表情に――マツブサは、全てを悟った。
(……やっぱりな)
 マツブサは立ち上がり、息を整えようと深呼吸を繰り返しているその男と向き合った。

「申し訳ありません、急な予定が入ってしまいまして」

 男は、息を切らせつつも穏やかに笑っている。細められた瞳には悪意など一欠片もなく、ただ、これから共に研究する仲間が増えたことを喜んでいる。――あの頃、彼の瞳の奥で静かに渦巻いていたあの昏い野望は、どこにもなかった。
 一目見てわかる、その違い。
 この部屋で初めてマツブサに出会ったにもかかわらず、驚きもしなかったこの男。

「ようこそ、私たちの研究所へ」

 咳払いをひとつして差し出された手は、記憶の中のそれよりも細い。この歳になるまでずっと、研究に勤しんでいたのだろう。
 それでも、肌の色は記憶よりも少し黒かった。ちらりと横の壁に視線を寄越せば、海を背後に仲間と笑い合う写真が飾られている。

「歓迎します」
「……よろしくお願いします」

 この男に対して敬語を使うのも慣れたものだ。違和感を覚えることすらなくなってしまった。敵意のないこの男と握手をすることも、穏やかに会話をすることも。あの頃なら絶対になかったそれらは、初期の頃こそ物珍しさがあったものの、慣れてしまえば退屈なものでしかない。
 マツブサが差し出された手を握り返せば、空いたもう片方の手で、男はマツブサの手を両サイドから包み込んだ。その温かさは、悔しいことに記憶と同じだった。
(よお、アオギリ)

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 そう言って嬉しそうに笑うその顔は、あの頃の記憶のどこにもない。こればっかりは、いつまで経っても慣れなかった。きっと慣れてはいけないのだと、マツブサは自分勝手にそう思っていた。
(――またおめえは、覚えてねえんだな、オレのこと)


 初夏。
 肉体が崩壊してより此方、六度目の転生であった。