孤独よ目覚めろ、
あの場所で。
02
――二度、“絶望”したことがある。
絶望と呼ばれる感情自体は何度も味わってきた。だが、今回でいうところの“絶望”とは、自身の頭を、心臓を、掻きむしりたくなるような、残った右目を今すぐにでも抉り出したくなるような、そんな“絶望”のことだ。
一度目は戦場。医療器具も治療場所も時間も人員も薬も、何もかもが足りない。そんななか、ただ苦しむだけの兵士たちに、自分が何も出来ないのだと悟ったときに。
不思議と、彼らに『処置』を施すときはそんな気持ちを味わうことはなかった。既にそう感じる箇所が死んだのだと思った。もう動くことはないのだろうと、そのときは確かにそう思ったのだ。
戦争が終わり、母国へと帰り、家族と再会した。変わり果てた俺の姿に涙を流し、それでも『無事に帰ってきてくれてよかった』と抱きしめてくる妹を、辛そうな顔で俺を見つめてくる父を、俺は思いきり抱きしめ返した。
その頃にはもう俺の心は決まっていた。俺がこれからの人生で行なうことがどんなものかを二人が知れば、俺はもう彼らを抱きしめることなどできやしないのだからと、俺は戦場から帰還し家族に再び会えた喜びの感情に託けて二人を抱きしめた。――別れの抱擁のつもりだった。
今でこそ患者たちを安らかに眠らせてやることのできる機械が手元にあるが、当時の俺にそんなものはなかった。これから生きていく道を決めてもその手段がまだ確立しておらず、けれど戦場での記憶がまだ新しかったその時の俺は、知り合いの病院を訪れた。父の代から交流のある病院で、兄妹でよくお世話になった病院だった。
かつての平和な日々に組み込まれていたそことも、別れを告げるために。――これまでの俺の全てと別れを告げるために訪れたその病院で、俺は二度目の“絶望”を知ることになった。
アポイントメントもなしに訪問した俺に、驚きながらも院長は家族と同じように抱きしめてくれた。そして俺を病院の中に招き入れてくれた。『よく頑張ったね』と、俺を抱きしめながら悲しそうに言った院長は、もしかしたら俺の感じた“絶望”を察したのかもしれなかった。
ありとあらゆるものが足りない戦場とは違い、ここは平和だった。ありとあらゆるもの――とまではいかないが、充分なものがそこにはあった。清潔なベッドやシーツ、白い服。整えられた薬棚、消毒された医療器具――そして。
――廃棄予定の、医薬品。
それが俺の、二度目の“絶望”。
***
「……眠ってたのか」
タクシーの運転手の呼び声で目を覚ます。どうやら自宅の最寄り駅に到着したらしい。
料金を支払いタクシーを降りる。移動している間に夜になっていたようで、空には丸い月がぽっかりと浮かんでいた。綺麗だった。明日のフライトは問題なさそうだ。
歩を進めれば、それに合わせてカラカラと音がする。コートの右ポケット、あの天才外科医から譲り受けた廃棄薬。――痛み止め。ただの、痛み止め。
それでも、居るはずのない兵士たちの声がする。――苦しい、痛い、いたい、イタイ。
ドクター、いたいよ。
ポケットの中の薬瓶を握りしめる。――この薬があれば、どれだけの兵士たちが苦痛なく、あるいは苦痛を和らげることができたのだろう。安らかに“国に帰れた”のだろう。
喉から手が出るほどに欲しかったそれが、平和な国では廃棄されていた。……使用期限が切れているという、それだけで。
これでも医者のはしくれだ。薬の使用期限はお偉いさん方の気まぐれで定められているものではなく、患者の命を守るために定められているものだ。使用期限切れの薬を使えば、重大事故も起こりかねない。ブラック・ジャックも、あの院長も誰も悪くない。正しいことだ。俺だって守っていることだ。分かっている。誰も、何も、間違っていない。
それでも、あの日。
戦場から戻ってきて、そこまで日も経っていなかったあの日。
あの病院で、廃棄された薬を見た俺は、膝から崩れ落ちてしまった。――どうして。
どうして、これを、戦場に送ってくれなかったのだ――
使用期限なんてどうでもよかった。そんなことを言っていられる場所じゃなかった。衛生状況は劣悪で、医療器具もボロボロで、そもそも薬も足りなくて、そんな場所で薬の使用期限なんて気にしてなんていられなかった。
それを気にしていれば兵士たちは苦しまずに済んだのか? 兵士たちは死を希わずに済んだのか? 生きて国に帰りたいと、叫ぶことができたのか?
生きることを、諦めずに済んだのか?
今更言ったって仕方ない。分かっている。
それでもそのときに感じた“絶望”を、俺は今でも覚えている。
*
ほどなくして辿り着いた自宅で、俺は然るべき手順でその薬を廃棄した。――捨てるくらいなら俺にくれよと、誰かが何処かで叫んでいた。
幻聴だ。
孤独よ目覚めろ、あの場所で。