嘘つきは
嘘をつかなかった

01

 やれ約束していたはずの資材が届かないだの、前に提出した書類に不備があるだので、仕事が長引くに長引いたパウリーは、ようやく今日の仕事から解放された。ぐう、と上に体を伸ばして、はあ、と脱力する。――新しくアイスバーグの秘書になった彼女は、ハレンチこのうえないがとんでもなく優秀で、しかしちょっとばかり融通が効かない。今日はその秘書とのやりとりがいつもよりも多く、彼は肉体的な疲労よりも精神的な疲労を強く感じていた。彼女が嫌いなのではなく、ただただ苦手なのだ。ハレンチだから。
 そういう日はいつもより豪勢に酒を飲むにかぎる、とパウリーは思っている。彼の場合、肉体は眠れば元気になるし、精神は自分の好きなものに囲まれれば回復するのだ。となれば当然、酒である。金? そんなものはそのときに考えればいいのだ。
 彼は人気のない廊下を通り、更衣室の扉を開けた。特にノックはしなかった。既にほかの仲間たちは帰宅している。それか、ブルーノの酒場で酒でも飲んでいるか。どちらにせよ更衣室には誰もいないはずであり、いたとしても男同士である。気にすることはないと、彼は大きく扉を開け放った。
 しかし、彼の予想は大きく外れることになる。

「あれ、ルッチ?」

 更衣室には先客がいたからだ。
 更衣室のロッカーの中に掛けられた黒いシルクハット、脱ぎかけている白のタンクトップ、ロッカーの上で丸い目をさらに丸くしてパウリーを見ている、彼の相棒の白い鳩――間違えるはずもない。ロブ・ルッチであった。
 彼は最近ガレーラカンパニーに入ってきた男である。そして既に、その頭角をめきめきと現している大型新人であった。
 そして、パウリーがアイスバーグから、面倒をみてやれと直々に頼まれている男でもあった。



 一言でいってしまえば、ロブ・ルッチという男は“変人”であった。
 自分の口では喋らず、いつも肩に乗せている白い鳩を使って、腹話術で会話をする。
 これで少しでも可愛げがあればまだなんとかなりそうなものだが、ルッチは寡黙な――悪くいえば無愛想な――性格で、さらに歯に衣着せぬ物言いをした。
 そのうえ船大工としての優秀な才能は遺憾無く発揮しているともなれば――出る杭は打たれる、とはよくいったもので、それらが周囲の反感を買うこともしばしばあった。
 『これでは他者との協力ありきの船大工は務まらない。だから、目をかけてやってくれないか』。――パウリーは、アイスバーグからそう頼まれていた。パウリーの、誰とでも打ち解けることのできる性格をかってのことだろうと、同僚のタイルストンは言っていた。
 パウリー自身、孤立しているルッチをなんとかしてやりたいと思っていた。ルッチ自身はそれを望まないかもしれないが、それは彼ときちんと話をしてから決めるべきだと考えていた。
 しかし、なかなか二人で話す機会がない。目をかけてやってくれ、と言われてもパウリーは直接ルッチに指導をする立場ではないし、酒場で仲間と酒を飲むことを好むパウリーと、一人静かに居ることを好むらしいルッチとでは、どうしたって行動範囲が異なってしまう。休日に酒場へ彼を誘うことも当然考えたが、彼について知りたいのなら、彼の過ごしやすい環境で話をするべきだと思った。
 しかしそこがどこなのか、今のパウリーには分からない。そもそもルッチと雑談をしたことさえほとんどないのだ。
 ならば更衣室で、それとなく彼と話せないか――そう思い、パウリーは新人が複数人入ってきたことを理由にして、自身のロッカーをルッチのロッカーの近くに移動させていた。更衣室は全員が使う。ルッチのロッカーもここにあるし、そのロッカーに使用感もあるから、彼はきっとここを使っている。
 しかし、更衣室でルッチと出会う日は一度としてなかった。――今日までは。



 ルッチは更衣室の扉が開いたことに、ひどく狼狽しているようだった。
 更衣室に入ってきたパウリーを見て、ルッチは目を見開いてしばし固まったかと思えば、脱ぎかけていたタンクトップを勢いよく着直した。そして背中をロッカーに押しつけて、彼は気まずそうに、パウリーから視線を逸らしている。
 良い機会であった。一緒に着替えながらルッチと話して、今後、彼と他の同僚たちの間をどう取り持とうかと考えるには、絶好の機会といえた。――しかし、パウリーには見えてしまった。
 咄嗟にルッチが隠したであろう、隠したかったであろう“それ”が、見えてしまった。

「ルッチ、お前――」

 ――どうしたんだよ、その背中。
 そんなこと、聞けるはずもなかった。
 鳩を介さないと満足に人と会話できない男。背中に尋常ならざる傷跡を負っている男。――過去に何かがあったのだと、理解するには十分すぎた。
 背中いっぱいに広がっているであろう傷跡の上半分は、彼の来ているタンクトップに隠され見えなかった。けれど、きっと触れていい内容ではないのだと思うほどに彼の背中の傷跡は大きく、痛々しいものだった。
 パウリーが言葉を失っていることに、ルッチも気付いたのだろう。彼はぐっと唇を噛み締めた。

『……気にするな。昔の話だ』

 腹話術を使ってそう言うルッチの肩に、ハットリがとまる。ハットリは悲しそうな鳴き声をひとつあげて、すり、とその体をルッチの頬に寄せた。――まるでルッチを慰めるかのように。
 しかし、ルッチが何事かを話そうとしていることに気付いたのだろう。ハットリは、そっとその体をルッチの頬から離し、パウリーに向き合った。そして、その小さな口を開く。

『ルッチは別の場所で着替えることにする。……すまなかった』
「――ッ! まッ、待てよ!」

 パウリーは、更衣室から出ようとするルッチの前に立ち塞がり、その肩をぐっと掴んだ。

「悪かった! お前がこんな……ッ、本当に悪かった……」
『……気にするなと言っている。謝られる方が面倒だ』
「先に謝ってきたのはそっちじゃねェか! 謝ることなんてねェのに! 悪かったのはおれだろ!」

 そこまで言って、パウリーはルッチの肩から手を離し、うろうろと視線をさまよわせた。

「すまねェ、事情も聞かずに……いや違ェな、そうじゃねェな」

 パウリーは目を閉じて、力なく首を横に振る。
 そして彼は覚悟を決めたようにぐっと目を開いて、ルッチをまっすぐに見据えながら口を開いた。

「お前の傷に驚いて悪かった。ここで着替えてもらって大丈夫だ。もし人目につきたくないってんなら端のロッカーを使えるようにする。それも気まずいんなら別の部屋も準備する。どっちがいい? お前の好きな方を選んでもらって構わねェ。それか他の考えがあるなら聞かせてくれ。約束は出来ないが、できる限りの対応をするから」
『……そこまでしてもらわなくとも構わない』
「いや、する」

 首を横に振り、パウリーは言葉を続ける。

「おれたち、一緒に船を造る仲間じゃねェか」
『―――』
「更衣室でお前を見たことがなかったのも――他のことも、この傷があったからなんだな。……すまねえ、おれ、いつも、お前のことからかって――」

 パウリーは唇を噛みしめ、血が滴りそうなほどに強く拳を握り、俯いた。――パウリーは、ルッチが腹話術でしか話さないことを、よくからかっていた。
 このままでは完全にガレーラカンパニーから孤立しかねないルッチを、なんとかつなぎとめようとする意図だった。会話の糸口のひとつとして使っていたのだ。
 しかしそのなかに、ルッチを本当にからかう気持ちがなかったなんて、パウリーには嘘でもいえなかった。――ただの“変人”だと思っていた。
 ガレーラカンパニーにはそういった人間が多かったから、彼もきっとそのなかの一人で、彼の性格は生まれつきのもので、だからその裏が、その理由があるかもしれないなんてことに、パウリーは気付けなかった。
 それが、どれほど彼の心を傷付けただろう。彼の沈黙のなかに、どれだけの感情が詰め込まれていたのだろう――そう考えるだけで、パウリーは過去の自分を殴りたい気持ちになった。
 静まり返る部屋の、重苦しい沈黙を破ったのは、常と変わらないルッチの声だった。

『構わないと言っているだろう、パウリー』

 自分への怒りに肩を震わせるパウリーに、ルッチは静かな声で言う。ハットリが、その白い羽をパウリーに突きつけた。

『お前が。……ああしてからかうことが、必ずしもルッチを傷付けるものだとは限らない』
「……? どういうことだ?」
『――みなまで言わせる気か?』

 ルッチは、ふんと鼻を鳴らす。そしてロッカーの中にかけていたシルクハットに手を伸ばし、それを深く、深く被り直した。

『ああしてからかってくれるほうが、よっぽど気が楽になることもある。……嫌な記憶が、忘れられるからな』
「……!」

 ハッと息を呑むパウリーに構わずに、ルッチは話を続ける。

『今日は、家で着替えることにする。――明日は、いつも通りにここで、着替えてもいいか』
「も、もちろんだ」
『着替える時間は、他の奴らとずらしていても構わないか』
「お前がそれを望むなら。――アイスバーグさんには、説明してるのか? その傷のこと」
『傷があること自体は知られている。採用面接のときに、身体検査もあるからな。だが、傷の理由は伝えてない。――あまり、伝えたくはなかった』
「分かった、じゃあおれも聞かねェ。……アイスバーグさんに、お前が傷の理由には触れてほしくないって言ってたってことは、伝えても大丈夫か?」
『どちらでもかまわない。採用面接のときにルッチからも伝えてるが、伝えておきたいと思うなら、お前の判断で伝えてもいい』
「分かった。――なァ、ルッチ」
『なんだ』

 パウリーは言い出しづらそうに視線をさまよわせ、やがてそっとルッチを見上げた。

「……その、他の奴らにも……せめて、一番ドッグの職長には、伝えていいか? その傷のこと」
『…………』
「どう伝えるかは、アイスバーグさんときちんと話し合う。伝える相手を誰にするのかについても、改めて相談する。……そうだ、相談した結果は、他の奴に話す前に、まずお前に確認してもらう方がいいのかな。おれは、そこらへんは得意じゃねェから、アイスバーグさんから……あの人なら、お前を傷付けるようなことはしない。それはおれが保証するから」
『――……任せる』
「ありがとう。絶対に、絶対にお前の悪いようにはしねェから。――それと、最後に」
『?』

 パウリーは自分のロッカーを素早く開けて、中から服を引っ張り出した。そしてロッカーの中に保管していた鞄の中にそれを詰め込んで、ロッカーの扉を閉じる。

「おれが家で着替えるから、お前はここで着替えよう。――おれはこの服のまま外を出歩くことが多いから怪しまれることはねェと思うけど、お前はちゃんと着替えてからここを出るだろ? 変に思われる可能性は低い方がいい」
『……いいのか。疲れているんだろう』
「問題ねェよ、気にすんなって! ……じゃあ、また明日!」

 服を詰め込んだ鞄を手に持って、パウリーは笑って手を振った。そしてばたばたと部屋を出て行く。――入ってきたときとは異なり、扉はパウリーが通ることのできる最小限の広さに開かれ、そして静かに閉じられた。