それは、ある
タマザラシの話

04

 陽光が差し込む白い部屋。聞こえてくるのはさざ波の音だけの、静かな部屋。いつもなら、この家の主人とともに食事をとり、遊んでいたはずの時間。
 タマザラシは、海の見える窓の前でじっと待っていた。お腹も空く、喉も乾く。それでもじっと待っていた。――マツブサが、アオギリとともにあの海岸線に向かって、一日が経過していた。
 マツブサはアオギリと話ができただろうか。アオギリは思い出したのだろうか。――もう、この街にはいないのだろうか。
 こんな弱いタマザラシのことなど、彼は忘れてしまったに違いない。それはとても悲しいことだけれど、タマザラシはそれを良しとした。だからここにいると決めたのだ。
 これからどうするかなど決めていない。ここで死ぬのかもしれないし、異変に気付いた誰かが助けに来るかもしれない。どちらでも良かった、ここに彼が来ないのならば、どちらでも。それ以外でも。

 だから、居るはずのないその影を目にしたとき、夢を見ているのだと思った。


***


「トドゼルガ」

 覆い被さる影から発された声に、タマザラシは顔を上げた。聞こえるはずのない声が、呼ばれるはずのない名前が、確かに空高くから聞こえたからだ。

「なにを驚いているんです。行きますよ」

 オオスバメからおりてくるその人に、タマザラシの目はさらに丸くなる。夢でも見ているのだろうか。あの人に会いたいばかりに、こんな幻覚を見るほどに自分は弱くなったのか。

「どうしました」
「……たぁ……」

 タマザラシの目の前に降り立ったアオギリを見て、全てわかった。彼は全てを思い出している。
 マツブサのことも、それ以外のことも、なにもかも。ならばなおさら、この家に戻ってくる意味は無いのに。
 落ち込んだ様子のタマザラシに、アオギリが小さくため息をついた。

「癖は変わっていませんね?」
「……?」
「戦うときの癖です」
「? ……たま」

 タマザラシはアオギリの言わんとすることが分からず、頷きながらも見上げることしかできなかった。この世界に生まれてから新しく戦うことはなかったため新たな癖が身についているとは思えないが、それがどうしたというのだろう。

「ならば問題はありません」

 アオギリはタマザラシを見下ろしたまま、言葉を続ける。

「貴方のステータスは決して悪いわけではありません。おそらくは他のタマザラシよりも強いでしょう」

 “れいとうビーム”も覚えているようですし。

「そしてなにより、一から他のタマザラシを育てるよりも、癖を知り尽くしている貴方を育てた方が効率がいい」
「…………」
「なにか問題が?」

 そう問われ、咄嗟に首を横に振る。アオギリにとって問題がないのなら、タマザラシにとっても問題はないのだ。アオギリの判断を疑うつもりはない。ただ、どうしても最後の一歩が踏み出せずにいた。……自身の力を、タマザラシは疑っていた。
 アオギリはそんなタマザラシの様子など気にした様子もなく、タマザラシに向かって手を伸ばす。そしてその体毛の中に隠されていた“もちもの”を取り上げた。手の中に収まるサイズの小さなそれは、何の変哲もない灰色の石のように見える。
 それは、タマザラシがずっと持っていたものだった。初めてそれを見つけたときに、イヴァンにねだってねだって、最後には買ってくれるまでこの店から動かないぞと、小さな手で店の柱にしがみついてまで買ってもらったもの。――彼が思い出すその日まで、自分がこの姿のままでいるための。

「“かわらずのいし”。――もう貴方には必要のないものです」

 そうでしょう?
 そう言うアオギリの顔が、タマザラシがその言葉を否定するなど有り得ないと信じきっている顔だったから。
 再び彼の隣に立つことが許されたのだと、タマザラシはようやく信じることができたのだ。

「……っ、たあ!」

 タマザラシは、その小さな手をアオギリへと伸ばした。何度も何度も、立ち上がっているアオギリには届かないと分かっていても伸ばさずにはいられなかった。バランスを崩して背中から転がることになっても、起き上がって手を伸ばし続けた。
 願掛けのようにこの姿のままで居続けた。トドゼルガに進化するなら、この人の隣じゃないと嫌だった。そんな、子供のようなわがまま。
 どんなに姿かたちが似ていても、一番は『この』アオギリだったのだ。
 滲む視界に、タマザラシはぶんぶんと頭を振る。これからこのひとの隣に立つなら、涙など流してはいけないのだ。
 きり、とした目で彼を見上げる。――戦える、戦ってみせる。貴方の邪魔をするどんな敵だって、倒してみせる。
 アオギリはそんなタマザラシの手を掴むことなく、上着のポケットからモンスターボールを取りだした。

「貴方の分のボールがなかったようですので」

 そう言ってこつんと当てられたボールの中に、タマザラシは吸い込まれていく。抵抗することなくそれを受け入れたタマザラシは、ゆりかごのように揺れるボールの中でその時を待った。


 やっと。――やっと会えた。
 幾度目かの邂逅。
 その果てに、ようやくあの二人が揃ったのだ。


 そして永遠にも思える数秒ののち、モンスターボールはかちりと音を響かせ動きを止める。
 アオギリの手の内に収められたモンスターボールの中、『トドゼルガ』はぱちぱちと手を叩いた。



それは、あるタマザラシの話