幸せだって
 笑って。

05

 楽しい一日だった。
 この一年で、きっと一番楽しい日だった。まだ一年は終わってないけれど、今年の暮れに、一番楽しい日だったと思い起こすことになるのは今日だろうと、ユリは思っていた。
 兄と穏やかに、こうして過ごす日は滅多にない。兄とこうして過ごすことのできるあの時間こそが、このうえない誕生日プレゼントだった。それだけで、やっぱりユリは幸せだった。
 自然と漏れ出す鼻歌もそのままに、ユリは玄関の扉を開ける。ただいまぁ、と誰もいないのにご機嫌な声を出す。鍵をかけてリビングへと向かい、電気をつけて、バッグをテーブルの上に置いた。
 身につけていたアクセサリーを外そうとドレッサーに向かう途中、ユリの背後で何か、小さな物が倒れる音がした。その後すぐ、何かが散らばる音が静かな部屋に広がった。
 何かしら、とユリが音のした方を振り向けば――

「あら? ……あ、バッグが……」

 音の正体は、テーブルの上に置いていたバッグだった。きちんと立てて置いていたはずのそれはバランスを崩し、その口を開けて倒れこんでいる。散らばる音は、バッグの中身がテーブルの上に溢れた音だったらしい。幸い、中身は床に落ちなかったようだ。
 溢れたバッグの中に、今日一日、頻繁に出し入れをした財布があることに気付いたユリは、ああそうだわ、と声を上げる。

「家計簿つけなくちゃ。今日はいっぱい買っちゃったもの」

 普段は使わないような金額を、何も考えずに使ったのだ。もちろん、多少散財しても問題がないだけの貯蓄がユリにはあるし、兄が選んだアパレルショップはファストブランド以上、高級ブランド以下の、誕生日プレゼントを贈るにはちょうどいい価格帯の店だったのでおそらく問題はないが、塵も積もれば山となる。支出はきちんと把握しておかなければ、女性の一人暮らしはつとまらない。
 少し急ぎ足になりながらドレッサーに向かい、身につけていたアクセサリーたちをきちんと磨いて、元あった場所へと飾る。そしてテーブルの前まで戻ったユリは、散らばった物の中に見慣れないものがあることに気が付いた。

「……? ……あ!」

 それは、赤い封蝋のされた、薄い水色の手紙だった。
 その手紙を、ユリは見たことがあった。――これは、毎年一度、匿名で贈られてくるそれに、いつも添えられていたもの。

「兄さんの!」

 手紙だわ!
 ユリは両の手でそれを持ち上げ、喜びの声を上げる。今日一日のショッピングがこれまでの手紙とプレゼントの代わりなのだと思っていたが、兄は例年通り、手紙も準備していたようだ。
 しかし例年とは異なるところもある。手紙の封筒には、兄の字で『我が妹 ユリへ』と書かれていた。――いつもは匿名なのに!
 いったいいつの間に、と疑問に思うよりも前に、ユリはペーパーナイフを取りに行った。取ってきたそれで丁寧に手紙の封を開け、ユリはその内容を読み進めていく。いつもと同じ内容でも構わなかった。――構わなかったのに。
 そうであって、ほしかったのに。

「……なによ、これ」

 手紙を読み終えたユリの手は震えていた。――いつの間にこの手紙を、私のバッグの中に? どのタイミングで? バッグを手放したりなんて――と、そこまで考えてユリは思い出す。
 そうだ。帰り際、駅まで送ってくれたときにバッグを持ってくれたのだ。
 別れ際の兄の様子を思い返す。ユリから兄を抱きしめることはあれど、兄からユリを抱きしめることはほとんどなかった。
 兄がそうしてきた時点で不審に思うべきだったのだ。誕生日だから、楽しい一日だったから、お酒で気分が良かったから、昔の兄が帰ってきたかのような穏やかな時間が嬉しかったから、涙が出そうなくらい嬉しかったから、だから、その違和感を見逃したのだ。
 兄はユリのバッグを手に持ちながら抱きしめた。抱きしめたそのときに、ユリの背後でキリコは彼女のバッグにこの手紙を忍ばせたのだ。――こっそりと、気付かれないように。

「……ッ、ばか、馬鹿! 兄さんの馬鹿!」

 力任せにテーブルを叩く。ユリの手の中で、手紙はくしゃりと音を立てた。

「なあに、これは? 遺書のつもりなの? 何かあったら全部お前のものだから? 何も心配するなって? すまないってなに? そういうのは直接言うのよ兄さん、こんな手紙じゃ駄目なのよ兄さん!」

 視界が滲む。握りしめた指が白くなり、テーブルに叩きつけた手が赤くなる。――さっきまで一緒にいたじゃない、なんでその時に言ってくれなかったの?
 言いたくなかった? 私の誕生日に私と喧嘩したくなかったの? じゃあこの手紙はなんなのよ。私が今日中にこの手紙に気付かないなんて、思ってなかったでしょう!

「意気地無し! そのくせ何なの? 幸せになれって。……ッ、お、お前の笑顔、だけが幸せだから、って……わたし、私だって、ねえ兄さん、私だって、そうなのよ……」

 膝から崩れ落ちる。手の内でくしゃくしゃになってしまった手紙の、つけてしまった皺を伸ばすようにそっと広げた先に広がる文字の集まりは、腹立たしい、けれど愛しい兄の文字だった。
 神経質そうな、しかしそのなかに兄の持つ優美さを含む美しい文字で、彼はユリに遺書とも読めるような手紙を残した。ずっとそれを懐に忍ばせたまま、この一日を過ごしたのだ。

「私だって、兄さんが笑ってくれたら、それだけで……」

 彼の行き先は手紙のどこにも書かれていなかった。ただ、この手紙を残したなら、それはその行き先が兄をして命の危機を感じる場所だということだ。――今日が、最後だったかもしれないの? だから抱きしめてくれたの、兄さん?

「……にいさん、きょう、たのしかった?」

 静まり返った部屋に、水の零れる音が落ちる。頬を伝って床へと落ちる。――私は楽しかったわ、兄さん。すっごく楽しかった。
 兄さんがいるだけで楽しかったの。兄さんが、仕事をするときのあの服じゃなくて、母国にいたときのような服を着て待ち合わせ場所に来てくれて、私のわがままを全部聞いてくれて、昔の話も今の話もいっぱいできて、本当に、本当に楽しかったのよ。
 でも、兄さんは? 遺書を胸を抱いていた兄さんは、ねえ、楽しかったの? 私といるのは辛くなかったかしら。最後かもしれないなんてまったく思わずに『また来年も祝ってね』なんて宣う私の姿に、心を痛めはしなかったかしら。
 私に直接会って誕生日プレゼントを贈ろうとした理由も、ただ祝いたかっただけじゃなかったのね。今日が最後かもしれないから、私に最後のプレゼントを贈ろうとして、それなのに私のわがままでそれを断られた、可哀想な兄さん。
 にいさん、兄さん、あなたが優しい人だって、私、知ってるのよ。そして色んなことを隠すことがとっても上手い人だってことも知ってる。
 私があんまりにも楽しそうに今日を過ごしていたものだから、だから兄さん、私に直接言えなかったんでしょう? 私が悲しむと思ったんでしょう? この手紙は保険だったんでしょう? 本当は私に、ちゃんと伝えるつもりだったんでしょう?
 ねえ、そうでしょう?
 そうだと言って、兄さん。自惚れだって笑ってもいいから、そう言ってよ。
 手紙は答えない。当たり前だ、紙は紙でしかない。これは兄ではない。分かっていても、ユリの口は、想いは止まらなかった。

「――にいさん」

 手紙に語りかける。――今日はいっぱい笑ってくれたわね。
 私をからかったり、私の話を興味深そうに聞いたり。子供の頃以来だったわよね、私たち兄妹が、あんなに笑いあったのは。

「……兄さん、私、探すわよ」

 兄がいつものように仕事を終えて何食わぬ顔で連絡をしてきたら、思い切り罵倒してやろう。淑女らしからぬ罵倒を今から学んでやる。
 だけどもし、連絡がなければ。――いつまで経っても連絡がこなければ、ユリは兄を探しに行くと決めた。今決めた。グマのときのように、兄が無人島にいたって、見つけ出してみせる。

「私は“死神”の妹なのよ、兄さん。それなのにあなたと違って諦めが悪いこと、知ってるでしょう。言っても聞かないこと、知ってるでしょう」

 ユリは立ち上がる。その瞳にもはや涙はなく、そして怒りもなく。あるのはただ、嵐の前の静けさのような。はたまた凪いだ海のような。
 手の内にある手紙に、ユリは語りかける。

「だから、まずは、普通にちゃんと帰ってきて。それが一番なのよ。兄さん、死にたがりってわけじゃないものね。……でもね、でも、普通に帰って来れないようだったら、私、何処にだって行くわ」

 そのときはブラック・ジャック先生にも手伝ってもらおう。あの人には、迷惑をかけてしまって、申し訳ないけれど。
 兄はすぐに諦めてしまう。ときには自分の命さえ。それを許さないと、真正面から同じだけの熱量をもって叱責することができるのは、やはりあの先生しかいないのだ。――悔しいけど、悲しいけど、私は妹だから。兄にとって、私はいつまで経っても庇護対象だから。
 対等には、なれないのだろうから。

「だから、兄さん、そのときは――」

 全部全部終わって、またいつもの、穏やかとは言い難い、だけどいつもの日々が戻ってきた、そのときには。

「……来年も、誕生日プレゼント、準備してくれるんでしょう?」

 帰り際、手を振るだけで何も答えなかった兄。ただ微笑んでいた兄。――知らないの、兄さん? 沈黙は肯定なのよ。私、都合のいい方に受け取っちゃうんだから。
 欲しいプレゼントの、内容はもう決まっていた。物なんていらなかった。
 いらないわ。
 服なんて、アクセサリーなんて、そんなもの全部。
 私が欲しいのはひとつだけ。

 とびっきりの、それを。
 今日の私が兄さんに見せたような、とびきりの、とびっきりの笑顔を、私に――


幸せだって笑って。