さよならを待つ屍
04
一年に一回、墓参りをする約束を取り付けて、ブラック・ジャックは自宅へと戻った。
出迎えてくれたピノコにお土産を渡せば、ひとり置いていかれたことに不満を抱いていたらしい彼女の機嫌はすぐに戻った。――否、戻ったというよりは、戻してくれた、というべきか。
彼女はブラック・ジャックの様子がおかしいことに気付いているようだった。おそらく彼女は、ブラック・ジャックに気を利かせてくれたのだ。女性というものは、どうしてこうも聡いのだろう。ユリしかり、ピノコしかり。
その気遣いをありがたく享受することにして、彼はいつもの部屋へと向かった。窓を開ければ、聞こえてくる波の音、漂ってくる微かな海の匂い。肌を撫でる、冬の冷たい風。
椅子に座り、机の引き出しからペーパーナイフを取りだして、そっと封を切った。それを開くのを躊躇ったのは、一瞬だけ。
ブラック・ジャックは封筒から手紙を取りだし、破かないよう意識しながらも、勢いよく手紙を開いた。
「―――」
手紙を読み終えるのに、時間はかからなかった。十秒だっていらなかった。
ユリから手渡されたキリコの手紙には、たった一言しか、書いてなかったからだ。
《アンタの手、好きだったぜ。》
それだけであった。
ただそれだけしか、書かれていない手紙だった。
炙っても文字が浮かび上がるような細工は見当たらない。封筒も同様。手紙をひっくり返し、光に照らし、手で紙の表面をさすり、なにか細工はないかと探り続けたブラック・ジャックだったが、そんなものはひとつも見つけられなかった。
真実、キリコがブラック・ジャックに遺した言葉は、この一言だけだったのだ。
「…………」
ブラック・ジャックは、キリコの手紙をもう一度読み返した。そしてそっとその文字を撫でたあと、静かに手紙をたたんで、封筒に戻した。封筒を完全に閉じようと、彼は封蝋を探す。――嗚呼、あれは、キリコは、本当に死んだのだ。
もしもこの遺書が偽造で、なんらかの理由で身を隠しているだけであれば、あれはわざとらしくここに言葉を書き連ねていたことだろう。恥ずかしい言葉のひとつやふたつ、書いたりしてブラック・ジャックをからかったりしたかもしれない。
けれど、この手紙にそれはない。――その昔、キリコがブラック・ジャックに伝えた、彼なりの愛の言葉だけが、そこに書かれていた。
*
多くは語らない男だった。
言葉が少ないときのほうが、ずっと彼という人間に近付けた。
黙したまま、キリコはブラック・ジャックの体中を這う縫い跡を、ブラック・ジャックはキリコの眼帯のその下を。しげしげとお互いの傷跡を見つめ合い、触れ合う方が、よほど分かり合えた。
仕事が関わらないプライベートの時間において、彼は静かに、ブラック・ジャックの前に、傍に、背後に、佇んでいた。そして時折、小さな声で語るのだ。その内容は彼の胸の内であったり、彼がそのときにふと思ったのであろう、なんでもないようなことであったりした。
そしてその全ては彼の本心であり、普段は決して口にしない、彼の感情であった。
『――アンタの手、好きだぜ』
強い雨の降る夜。ブラック・ジャックが、体中を這う古傷がもたらす痛みにベッドの上でもがき苦しんでいたとき、キリコはたしかにそう言った。ブラック・ジャックの手を、そっと握りしめながら。
痛みに耐えるため否応なしに潤んでいる視界の先、キリコの瞳が労わるように、そして愛おしむように細められているのを、ブラック・ジャックはたしかに見た。
痛みに耐えるその姿に心配を。
これだけの傷を負いながらも生還し、壮絶なリハビリを乗り越え――人々を救い続けているブラック・ジャックの生き様に、そして神の手と称されるその手に、彼なりの愛を。
彼はそれらを、たった一言に込めた。……多くは語らない男だった。
ならば遺書も、否、遺書だからこそ、彼はブラック・ジャックに語らなかった。
たった一言、愛だけを語り、遺したのだ。
*
封蝋を見つけた。気に入りのものだった。
失敗をしないよう、丁寧に丁寧に手紙に封をした。ペーパーナイフで開けたのだ、封蝋など意味がないことなど分かっていた。それでも彼は意味のない封をして、その手紙を机の一番下の引き出しに投げ込んだ。滅多に開けない、けれど決して存在を忘れないその場所に、キリコの遺した愛を放り込んだ。
勝手に言うだけ言って、別れも言わずにさっさと先に逝ってしまった男の愛の言葉など、この扱いでいいのだ。――そう、言い聞かせた。
さよならを待つ屍