私と
煤けた極楽浄土

 夏は嫌いだ、と彼は言った。

「いやでも戦場を思い出す。――忘れたことなんてないが、それでも嫌なことばかり思い出す。それだけじゃなかったはずなのに。地獄の中にも、穏やかな時間が確かにあったはずなのに。……まるでそれしかなかったみたいに、思い出せなくなる」

 そう言うくせに、彼は黒い厚手の毛布に包まっている。頭からそれを引っ被って、彼は私の部屋にいた。我が物顔で私のベッドを占領し、丸くなっている。
 時刻は午後4時。夏服でも暑いのに、黒い毛布を被るその姿は、むしろ夏の暑さを満喫しようとしているようにさえみえる。実際はそんなわけないのだろうけども。

「言動が伴っていないようにみえるが。そんな格好をしていたら余計に暑いだろう、いやでも夏を感じることになるぞ」
「伴ってるよ」
「どこが」
「なかったからな、戦場には。……こんなふわふわのベッドも、毛布も、なにも」

 日本の、茹だるような暑さが戦場を思い起こさせると彼は言った。
 だからそれを、『戦場になかったもので上書きするのだ』と、彼は言った。

「……それで? 私の家に来た理由は。自分の家でも良かったろう」
「なかったから」
「は?」
「“奇跡のメス”。――戦場には、なかったから」

 一番欲しかったのに、なかったから。

「だから来た。ないもの尽くしのこの場所に」
「――……ご感想のほどは」
「最悪。――でも、最高だ。アンタがいる」
「何故それが“最高”なんだ。むしろ逆効果だろう」
「アンタがいる、って言っただろ。……アンタがいるってことは、ここが戦場じゃないことのなによりの証左じゃないか」

 アンタなら、俺みたいな選択はしなかったろ。
 そう呟いて、にわかに彼は起き上がる。

「海が近いのも最高だ。あそこに海はなかった」

 開いた部屋の窓から、波の音が聞こえている。海の香りも、ここまで届いている。
 片目しかない目を閉じてその音を、深く息を吸い込むことでその香りをめいっぱい味わったらしい彼は、わざとらしく媚びを売る笑顔をこちらに向けてきた。

「……先生、お話があるんですけども」
「……聞くだけ聞いてやろう」
「来年も来ていい?」
「お前が人殺しをやめるなら、いくらでも」
「ああ、じゃあこれきりか。せっかく良いとこ見つけたのになぁ」

 お互いの提案をお互いに切って捨てる。予定調和。こういうところは、ウマが合うというか息が合うというか。

「じゃあ、もうひとつ提案。もう来ちゃったし、今日はもう少し居てもいい?」
「……私が嫌だと言って、聞くのか? アンタ」
「聞かないね」

 言い切るや否や、彼は再び黒い毛布の中に潜り込んでしまった。まるで赤子のように。――彼を包む黒い毛布は、使い古されたようにボロボロだった。……ライナスの毛布。

「あと1時間もしたら帰るよ」

 毛布に遮られくぐもった声で彼が言う。

「……ああ、そうしてくれ」

 そう言い残して、私は寝室を後にした。私の部屋だが、今だけは私の部屋ではないそこを出た。寝室の扉を閉めて、それに寄りかかる。
(――自惚れるな、ブラック・ジャック。これは、『安楽死』とは関係のない話だ)
 戦場から戻ってきた兵士たちがPTSDを発症することは珍しいことではない。彼はきっとその一人だ。
 彼は普段、まるでそんなものはないのだとでもいうかのように振舞うが、こうも外的要因が揃ってしまうとそうもいかないのだろう。
 日本はそろそろ、『温暖湿潤気候』の名前を返上するべきだと思う。湿潤なのは正しいが、もはや温暖どころの話ではない。――彼があのジャングルを思い出してしまうほどに、この国の夏は暑くなりすぎた。
 もしも彼が安楽死稼業を辞めて『普通』の医者に戻ったとしても、これはずっとつきまとう問題に違いない。そうであるならば、私から言えることなど何もないのだ。しいていえば『それ専門の病院に行け』くらいか。切ることしかできない私に、彼の心は癒せない。
 軍医だったと聞いている。その地獄を私は知らない。踏み込んだところで、私にはどうすることもできない。彼の戦争は遠く過ぎ去ってしまったのだ。徒に踏み込めば、ただ彼の心を切り刻んでしまうだけだ。
 私と彼は、寄り添うことなどできない。――患者を救うという、共通の理想を掲げているはずなのに。

『“奇跡のメス”。――戦場には、なかったから』
『一番欲しかったのに、なかったから』

 その言葉を聞いたとき、ああ、随分と弱っているのだなと思った。普段なら、あるいは弱っていてもそれが『通常の弱り具合』なら、彼は絶対にこの言葉を私に言うことはなかったろう。
 何かがあったのだ。
 彼が、死神の仮面を外してしまうくらいのなにかが。
(――こういう話の、相場は大抵決まっている)
 あれから長い時が経った。戦場から戻ってきた彼の兵士たちが、天に召される日も近かろう。――彼が、呼ばれることも、増えるだろう。
(広告でも貼りゃあ、アイツの仕事も減るかね)
 どんな難病も、この天才外科医にお任せあれ――そんな広告を貼り出した日には、その言葉のあまりの軽さと身勝手さに身体中を掻きむしりたくなるほどの羞恥心を覚えるに決まってるのに、それでも頭をよぎった戯言。
 分かっている。私がこの件に関してできることはなく、ただ彼の心の傷とやらが癒えるのを待つばかりだと。
(そして、癒えたそばから抉りに行く。……マゾヒストかい、お前さんは)
 きっと普段はここまで酷くないのだと思う。そう信じたい。
 全部全部、この国が暑いから悪いのだ。別の地域に行きゃあここまでじゃないんだろう。ここまでじゃなくても弱りはするのだろうけど。
 それでも彼は日本にいる。日本に彼を呼ぶ患者がいたから。そしてきっと、まだいるのだろう。だから未だに日本に残っている。呼ばれたなら、彼は何処にだって行くし何処にだっている。
 私と同じだ、同じなのだ。
 なのにどうしてもこうも、いっそ腹立たしいほどに、私たちは違うのだろう。

「バッティングしねぇかなぁ、アンタの患者と」

 そしたらアンタの患者、根こそぎ奪い取ってやるのに。
 そしたらアンタ、ちったあマシな顔になんだろうに。
 うちの家の扉は薄い。患者に何かがあったときに家のどこにいても気付けるよう、意図的に薄くしているのだ。だから私の、わざとらしく大きな声で呟いた独り言は、きちんと彼に届いたらしかった。
 抗議の意を込めたであろう、寝室の中から扉を叩くその音はあまりに弱い。こりゃあ1時間で持ち直すのは無理だなと判断した私は、古めかしい黒電話のあるいつもの部屋へと向かった。――買い出し中のピノコに、3人分の夕食を準備するよう伝えるためである。


私と煤けた極楽浄土