鳥かごの戸は
 開いている。

 今日も今日とて、おさげを揺らす女学生は私の家へとやってきた。
 当たり前だとでもいうように珈琲を淹れ、ソファーに腰掛けている。手にはつい最近発売したばかりの私の新刊があり、それを傍から見ても分かるほど輝いた目で見ていた。作家冥利に尽きる話である。「今日はこれを読み終えるまで帰りませんよ!」とは、私に珈琲を淹れ終えたあとに放たれた彼女の言葉だ。日暮れまでには帰りたまえよ。

「今日こそは! あたしが勝ってみせますからね!」

 ソファーから立ち上がって無い胸を張り、彼女は私を指さしてそう宣言した。いつの間にやら始まっていた私と彼女の謎解き勝負に、彼女は現在連敗中である。
 本当に懲りない娘だ、このやりとりを過去に何度していると思っているのだろうか。――はて、そういえば何度だったかな。
 
「挑戦状を叩きつけるのは一向に構わんがね。人を指さしてはならんと学校で習わなかったのか、ひばりくん?」

 にっこり笑いかけながら、私は向けられた指に対して本来なら曲がらない方向へと力を加えた。――おお、よく反り返る、このまま手の甲につけることもできるのではなかろうか。

「きゃー! 折れる折れる折れちゃいますよー!」

 顔を真っ青にして空いている方の手をばたつかせる彼女。
 本当に折るつもりなどは毛頭ないため、彼女の打てば響く反応を楽しんだ後、ぱっと手を離してやる。彼女はすぐさま、自身の指がきちんと曲がるか確認していた。

「ひどいですよ、せんせー!」
「阿破破」

 風船のように頬を膨らませ、怒りからだろう赤い顔をしている彼女を見るのも、果たして何度目だったか。
 彼女はしばらくそうして私を睨みつけていたが、やがてふいと顔をそらし、ぼふっと大きな音を鳴らしてソファーへと戻った。乙女らしからぬ座り方である。

「絶対に勝つんだから!」
「せいぜい足掻きたまえよ、名探偵?」

 意気込んだ彼女は、本の1ページ目へと手をかけた。こうなると、彼女はしばらく何をしても反応を返さない。その集中力を授業に活かせと言いたいところであるが、土台無理な話だろう。
 私は彼女をからかうのをやめて、彼女の淹れた珈琲に口をつけた。そうして彼女が本に集中していることを今一度確認したあとで、視界の端に入る自室の窓へと目を遣った。――気付かれないと思っているのか。よほどおめでたい頭をしているようだな。
 ちくちくなどという可愛らしい音ではすまない、その視線。
 家の中でさえ気付くそれに、苦笑すら出ない。相当な新米が寄越されているらしかった。まあ、伝説の諜報員などというものに出てきてもらっても、それはそれで困るのだが。


***


 アメリカへと渡った過去の担当編集者と再会してから、今日で一週間。現在に至るまで、諜報部の監視が途絶えることはなかった。
 新刊を買いに行く時にも、原稿用紙を買いに行く時にも。
 神経を逆なでするそれらは、その数を減らしつつある。しかしこの分だと、一体いつ居なくなるのやら。外の国が二分化していき一触即発のこの国際情勢下において、我が国は相当暇なようだ。こんな作家一人に監視をつけるなど。
 視線を、目の前の彼女へと移す。
 普段の騒がしさが嘘のように黙々と本を読み進める彼女を、本当はこの家に来させるべきではないのだろう。監視はおそらく彼女にも、そして『月舟』にも及んでいるに違いない。宗達のところにも監視は及んだのだから、私の家にほぼ毎日といっていいほど訪れる彼女に、監視がつかない理由はない。
 しかし、急にこの家に来るなと云ったところで、彼女は納得しないだろう。何があったのかと聞き出そうとするに違いない。それを煙に巻くことはできるが、それでも彼女はここに来るだろう。そんな確信があった。……慢心かもしれない。
 また、彼女が唐突にこの家に来なくなると、諜報部の連中が怪しむ可能性もあった。
 彼らとて最初こそは、私が彼女を危険から遠ざけるためにそういった対応をとったと考える。それがごく自然な思考だ。
 しかし別の可能性も考えるだろう。

 彼女になにか頼んだのではないか。
 彼女に何かさせているのではないか。
 何か調べさせているのでは?

 その可能性は私にとってはゼロであるが、彼らにとってはゼロではない。既に私が、彼女に旧日本軍の秘密計画の全貌を教えているかもしれないと考えれば、彼女の唐突なその行動は、彼らにとり怪しいものでしかない。
 彼女が私の家に来なくなれば、私は彼女の行動を把握できなくなる。ほぼ毎日この家に来ている今でさえ、彼女の行動は把握しきれていない。もちろんそれは当たり前のことで、もし行動を把握しきれていれば、それはただの変質者だ。
 けれど私の家に来ていれば、なにかと理由をつけて彼女の隣に存在できる。夜が遅ければ見送りに、買い物に行くなら新刊ついでに。何かが起これば、彼女を抱えて、あの夜のように。
 結局はこの家に来ている方が、彼女の身の安全を守ることが出来る。この家に彼女が来続けるメリットとデメリットを天秤にかければ分かることだ。

 遠くからの視線が、私の体に絡みつく。
 亡霊はまだ、私の周りをさまよっているのだ。


***


 彼女の読んでいる本を見れば、ページ数を見る限り、ちょうど事件が起こったところのようだ。先程よりも真剣に本を睨んでいる。これから事件を解くヒントが出るのだと、今までの経験則から判断したのだ。
 しかし残念。今回の本は、物語の冒頭付近に最大のヒントがあるというのに。これを無くして解けるわけもない、最大の手掛かりが。
 ――今回もまた、私の勝ちだな、ひばりくん。
 彼女の悔しがる様子が目に浮かぶ。さながら目の前にあるかのように。
 私の本を読むのだ、気を抜いていい場面などあるわけがないだろう?
 ほくそ笑みながら、その口元を隠すように珈琲を一口含む。
 彼女は、今まさに向けられている悪意ある視線には気付かないだろう。
 それでいい。
 気付かない方がいい。
 そのままそうやって、私の本を読んで、私に見送られ、自宅へと帰ってほしい。これからも、巣立つときまでずっと。
 私に危害が及ぶだけなら構わない。私ひとりでどうとでもしてやる。

 だが、
 彼女に手を出すというのなら、
 彼女を脅かすというのなら、
 私は――

 いつの間にか力がこもっていた手を緩め、カップを机に戻す。既にお手上げらしい彼女は、呻きながら本を見つめていた。
 私と彼女との間に設けられたタイムリミットは、きっとそう遠くない日に訪れるのだろう。
 きみは何も知らなくていい。
 私の闇に触れないままに、巣立ってほしい。

 そのときが来るまではどうか、私に守られていておくれ、告天子。


鳥かごの戸は開いている。

「せんせーが邪気のない笑顔を浮かべてる! 明日は槍が降るんですね、事件です!」
「阿破破。――よほどその目を突かれたいらしいな?」