そして獣は
現界す。
「おやまあ、随分とズタボロで。――満足しましたか? アルターエゴ・リンボ」
頭上から聞こえてくるその声に、リンボは目を覚ました。白く少し明るい世界で、横たわっている自分の頭上に何かが座り込み覆いかぶさっている。なにかに頭を乗せている。ぼやけていた視界が徐々に焦点を結び、覆い被さるそれが何であるかが分かった。同じ顔の男が横に座って、仰向けに倒れている自分を見下ろしている。
その先に見える天は雲に覆われ、しかし白く輝く太陽と思しき球体が、月かと見紛うほど仄かな光で周囲の雲を照らしていた。月ではなく太陽であると、本能的に理解していた。
そうか、ここは、英霊の座か。この景色は、キャスターの陣地作成スキルによるものか?
「お目覚めですかな。……随分と手酷くやられたものですね」
「……見ていましたか」
「ええ、まあ。現世にて役目を終えたサーヴァントは皆、ここに還ってくるしかありませんので。戻り次第、お前をからかってやろうと思いまして、こうして膝枕までしてやっている次第です」
リンボの顔を覗き込むばかりだった道満が、そっと彼の顔に手を触れる。額の真ん中から顎にかけての一筋を、つつ、と指でなぞり目を細めた。
「ああ、身体も哀れ、真っ二つ。座には記録しか持ち込めませんから、その傷も何も残ってはいませんが……儂は顔ぐらいしか取り柄がないのだ、もっと大事に扱ってくれてもいいのでは?」
よよよ、と泣き真似をひとつしてみせる道満の、しかしどこか凛とした姿が地獄界曼荼羅のときの彼と大きく違う理由を、リンボは知っている。
ゆえに腹立たしい。平安京で、この男と合一するために用いた言葉が、甘言が、もはや何も響かないのだと分かってしまった。
眉間に皺を寄せているリンボの頭に手を添え、道満は静かに彼を撫で始めた。ちりん、ちりんとそれに合わせて鈴が鳴る。身体を起こしてその手を振り払い、今一度この男を自身の裡に取り込むことも考えたが、やめた。
ここはキャスターの工房だ。たとえこの身体が神霊と怨霊とを取り込んでいても、些か分が悪い。ここに来ることが分かっていたのなら、それ相応の対策はすでに練られているはず。実際に、そこかしこに防御術式、相手からの攻撃を反射する反撃術式が組まれている。――何故か、攻撃術式だけが無かったが。
「何故、拙僧はここに? ……我らは同一の座に登録されておらぬはずでは」
英霊として多面性を持つがゆえの別クラス召喚とは違う。蘆屋道満のアルターエゴ霊基は、人々の願いや信仰から生み出された別側面ではなく、異星の神により作られた紛い物である。ゆえに、『蘆屋道満』と同じ座ではなく、別個で登録されているはずだった。――それが何故。
「儂が呼びました。……お前と話をせねばならぬと、そう思って」
「ほう? ……特異点での記録、持っていないわけではあるまいに」
「お前がここに戻ってくるまでに、強制的に持たされました。お前を呼ぶということは、お前の記録も有するということ。特異点での記憶を思い出すということ。……これでも、悩んだのですよ」
「それは僥倖、もっと悩みたければお手伝いいたしますぞ」
「要らぬわ、莫迦者。調子に乗るでない」
言葉厳しく、ぴしゃりとリンボの言葉を撥ねつける。今のままでは晴明に勝てぬという、その一言で崩れ落ちたあの姿は見る影もない。そうだろうとも、やはりこの男も自分なのだからと、リンボは思う。
都を地に堕とさんと悪行を為し。そのために、善を為した過去を捨てた男、捨てようとした男。
本来であれば最後まで捨てきれなかったその善性を、異星の神により取り除かれ新たに神を招き入れ、アルターエゴとして成立したのが己なのだと、リンボは誰よりも、何よりも理解している。
理解しているからこそ、その差異が不快でたまらない。こちらに堕ちてこいと、強く強く願ってしまう。
自身の心と向き合うという、人としての強さなど、アルターエゴたる自分には無い。
「なあ、リンボよ」
それまでリンボの頭を撫でていた手が、そのまま頬へと移動する。長い爪が当たらぬようにと指の甲でさりさりと触れるその仕草はとても優しいもので、その瞳の奥に僅かながら浮かぶ感情は、間違っても悪性感情の塊たる己に向けるものではない。心の奥底がざわざわと擦れる感覚に、リンボは身動ぎした。それでも何故だか、起き上がろうとは思えなかった。
そんなリンボの様子を見下ろしたまま、とても静かに、穏やかに、道満は言う。
「お前は、儂なのだな」
その言葉に、リンボは目を見開いて固まった。言葉の真意を確かめようと、瞳孔が収縮する。道満の挙動を余さず観察し、嘘を暴きたてようとする。道満はリンボから瞳をそらさない。
道満の言葉に、嘘偽りはないようだった。
平安京でお前に施した屈辱を、辱めを。――都を守護する者の成れの果てが、都を阿鼻叫喚の地獄絵図へと変えようとしたことを思い出してなお、そう宣うのか。お前はそれを恐れ、自害さえしようとしたのではなかったか。
信じられないものを見る目をしたリンボを意に介すことなく、道満は言葉を続ける。
「お前の記録を得て、特異点での記憶を取り戻し、お前が目を覚ますまでの時間。――儂は考えた。お前をどうすればよいのかと。お前とどう向き合うべきなのかと。向き合うべきではないのか、なかったことにすべきなのかと。……特異点において儂は、お前を拒絶し、拒絶しきれずに呑み込まれ、逃げ惑い逃げられずに心を壊したが……会って、話して、そして決めたぞ、リンボ」
――お前は、儂だ。
「受け止めよう、受け入れよう。儂は、お前を儂自身と認めよう。誰がなんと言おうとも、あの男がお前を否定しても、お前自身がお前を否定しようとも、儂は、儂だけはお前を自身とみなそうぞ。――儂から生まれた存在ならば、儂はそれを受け入れる義務がある。あれだけ世界を、あれだけの世界を混乱に陥れた存在が、儂の心の裡に宿る悪性から生み出されたというならば。儂はそれを受け入れなければならぬ、それと共に歩まねばならぬ。為した悪行に差はあれど、為した理由はどちらも変わらぬ」
ただ、あの男に勝ちたかった。
あの男に、振り向いてほしかった。
「それだけのために都を、世界を滅ぼさんとした我々は同罪よ。涙を流せば、心を痛めておれば贖われる罪ではない。理由があれば許される罪でもあるまい」
「ンン……ではまた、拙僧に力をお貸しくださるのですか? それはいい、であれば今すぐにでも――」
「阿呆め、そうでないことなどわかっておるくせに」
道満はリンボの頭をぱしりと叩き、そうして叩いたところを再び撫でる。些細な悪戯をした子供を叱る親のように。
「再びお前に取り込まれるを良しとするわけではない。……お前の存在を否定することをやめると、そう言っているのだ」
「否定していたこれまでがおかしいのですよ。拙僧は貴方から生み出されたもの、否定などできようはずがありませんからね」
「あの頃の儂は、善行を為せば、為し続ければ自身の裡に眠る悪は目覚めぬと、信じていたからな。そもそも存在さえせぬと否定していた。まあそれが叶わぬものと知ったので、そうなる前にと自害しようとしたのだがンンンンンンおのれ晴明ィィィ……分かっておったなら最初からお前が動けばよかったろうが……」
道満が話している内容を、リンボも知っている。その時既に現世より退去していたが、道満の居る座に呼ばれた時点で、リンボも道満の記録を得ていた。全てが終わり復興しつつある都を見下ろしながら、明日の先を迎えぬよう命を絶とうとしたあの場面を知っている。――本来なら座に持ち帰ることの出来ぬはずの記憶、ただのアルターエゴ霊基ではないが故のものか。
愚かな男だと、思いながら道満の話をこれまで聞いていた。聞き流そうとしていた。
――だが、やめた。
「……そんな阿呆だから、いつまで経っても晴明めに勝てぬのだ。外道は外道らしく、意にそぐわぬ者を片っ端から消し去り自身の糧にすればよかろうものを」
自身をも巻き込んだ苦し紛れの悪態に、道満はきょとんとしてリンボの顔をしばらく見つめた。そして、先程までの悔しそうな顔は何処へやら、からからと笑う。
「そうせねば、儂が納得出来ぬというだけのことよ。――そうとも、お前と同じく、儂も外道に堕ちた身だ。もはやお前の言葉、儂を揺らがせるには足らぬ。『勝てなかった』という過去を持つ儂に、もはやその言葉は通じぬよ」
既に生は遠く過ぎ去り、我らはもはや、人理の影法師でしかない。
たとえどこかの世界で安倍晴明を打ち倒したとして、それは記録になるばかり。次回の現界には持ち越せぬもの。
その時にはまた、星に手を伸ばすことになる。
「ならば諦めるのか。蘆屋道満を名乗っておきながら、それが許されるとでも?」
「まさか! そのようなことは決して有り得ぬと分かっておろうが。あの男を打ち倒し、最後に笑うはこの儂よ。ただ、お前の紡ぐ言の葉が、もはや儂を汚すことはないということだ。晴明には勝てぬぞと、奴は儂を見てはおらぬぞと、言ったところで儂はもうお前には呑まれることはない」
そこまで言って、道満はそっと視線を逸らした。曇り空と月のように淡い太陽を見上げ、彼は瞳を閉じる。
「当然だ。それらは全て『事実』。嘘偽りなく事実だったのだ、リンボ。――生前の儂は奴には勝てず、奴の目に映ることも能わず。腸が煮えくり返るものであるし、安倍晴明を見たら呪わずにはおれぬし、こうして奴のことを話している今も呪い殺したくてたまらぬが、もはやそれまで。悪に堕ちる前の儂ならいざ知らず、今の儂はすでに悪性に満たされた者だ。良心を捨て、善性を捨て、それらを愛した過去を捨てた。お前の為した悪行を肴に酒が飲める男だと、気付いていないわけはあるまい?」
ぽんぽんと、道満が二度手を叩けば、何も無かったはずの空間に一本の瓶子が現れた。盃はない。そのまま瓶子に口をつけ、ぐい、と一息にその中を空にして、道満は笑った。
「特異点が修正される間際、晴明と交わした言葉も思い出したぞ。あれは、あの男は儂がお前に呑まれることが予想の外であったのだと! その時の儂は呆然と立ち尽くす他になかったが、今にして思えば傑作であったよ。奴は儂の何を見てそう思ったのであろうなぁ……。そして儂は、自身の選びとった道が間違いではなかったのだと確信したのだ」
道満がそう言ってリンボを見据えた、そのときだった。
吹くはずの無い風が吹き、二人の髪を大きく舞いあげる。空が姿を消し、辺り一体が完全なる闇へと変わる。道満とリンボの姿だけが、うすらぼんやりとその闇の中で浮かび上がっていた。そして道満の身体だけが、黄金の光に包まれる。
散り始める意識と、誰かの喚び声。聞いたことのある少年の声。流し込まれる彼の魔力に、ああこれが召喚されるということかと、道満は理解した。その光を見て、リンボも気付いたことだろう。
初めてのことだ。儂が、拙僧が、誰かに喚ばれるなどということは。陰陽師の力を求めているのならまず間違いなく、人々はあの男を喚ぼうとするだろうから。
道満が立ち上がる。それに合わせてリンボも起き上がり、道満と向き合った。
お互いがお互いを、真正面から見据えたのはいつぶりか。いつもリンボは、道満の背後から声をかけ、その弱い心を堕とそう呑みこもうとしていた。道満はそれに怯え、うずくまり耳を塞いでいた。
道満は自身の手を見つめ、開いて閉じてを繰り返す。――星見台が、何を思って我らを召喚しようというのかは分からないが。
「なあ、リンボよ!」
風にかき消されぬようにと、前を見据えて道満は声を張り上げた。
「儂は、儂らはそこでなら勝てるやもしれぬ! 善き行いを重ねて奴に追いつけないのなら悪の道に堕ちてでもと、思うた過去は決して無駄ではなかったのだ! あれの予想を覆したのだ。儂の愚かさは、あれの予想を超えたのだ!」
道満がリンボに手を伸ばす。
さあ、手を取れと目で促す。
「儂はもう逃げぬぞ、リンボ。生前に儂が為した悪行から、死後お前が為した悪行から、これからカルデアにて為すであろう悪行から。――もう逃げぬ、目を背けることはせぬ。お前の言葉、お前の甘言、今度こそ退けてみせようぞ」
――そのうえで、儂はお前に手を伸ばそう。
「儂はどうやら、お前の身体を借りて現界することになるようだ。あの者らは儂とは縁が結べなかったからな、致し方あるまい。……どうだ、リンボ。儂とともに来るというのは?」
「……ふふふ、なるほど、面白そうなことを考えておられるようで」
静かに道満の言葉を聞いていたリンボが、にやりと笑う。まだ何も言っていないはずだが、と考えて、道満は答えに思い至った。
「……ンンン、同じ霊基を用いて現界しようとする弊害か? 心の内が読まれておるのか」
「その様子だと、貴方は拙僧の心の内が読めぬようで」
「……お前の身体に儂が入る形になるからか。つまり主人格はお前ということか! おのれ……」
「残念でした。……やめますか?」
「やめぬ」
間髪入れずに道満は答える。
「いつだって儂らに、戻るもやめるも無かったであろうが」
あの星の輝きを見たが最後、死ぬまで止まれぬは運命であった。
そして死んでからも、その歩みを止めるわけにはいかなかった。
徐々に薄くなっていく身体に、触れなくなる前にリンボは道満の手を取った。黄金の光は道満だけではなくリンボも包み込み、その輝きを増していく。
「いいでしょう。――我らは二人で一つだと、他ならぬ貴方がそう申されるのであれば、拙僧からは何も言うことはありません。英霊の座に揺蕩うのも退屈でありますし、カルデアの今後にも興味があります。一体どのような地獄を見せてくれるのか……。それを特等席で眺めるためだと言うのならば、存分にこの力、使われるとよろしい」
「力は否が応でもお前のものを使うことになるが……それよりリンボ、お前の知恵をよこせ。ギリシャだのなんだのと、儂に馴染みのない国を転々としたのであろう? そこにはどのような悪行があった? 術があった? 奴に通じそうなものはあったか? 記録が多すぎて、まだ網羅できておらなんだ。後で詳しく聞かせてくれ」
にい、と笑う道満の姿に、やはり自分はこの男から生み出された悪性の塊なのだと、リンボは笑みを深くする。晴明に勝てず誰からも認められず、心を痛めて苦しみ嘆き泣いていたあの男では無いのだ。
そんな男はもう居ない。居るのは星に手を伸ばすほかにもう道がない、哀れな道化だけ。
道化は涙を流してはならないと、道満もリンボも気付いている。
「さあ、リンボ。――今度こそ、嘘偽りなく『我ら二人で』晴明を打ち負かしてやろうぞ」
そして獣は現界す。