さよならに溺れる
まなざし

「いつか必ず、オレ達の関係は破綻する。お前はそれでも、オレとそういう仲になりたいのか?」

 静かに告げられたその言葉に、確かにオレの心臓は凍ったのだ。


***


 休養日。人気の多い焼肉屋の、一番奥の部屋。
 なんともムードのない場所で、でもこれだけ騒がしければ他の人に聞かれることもないだろうと思い、オレは意を決して坂木さんを食事に誘った。もしも忙しければ大丈夫だと、言葉を続ける前に彼からの了承が出て、浮き足立つ心を押さえるのに苦労した。顔には出てなかっただろうか、オレのポーカーフェイスは役に立っていただろうか。
 オレが誘ったのだからと心の中で血涙を流しながらお金を下ろしていたら、おそらくそれをどこかで見ていたのだろう。待ち合わせ場所に着いた彼は早々に、『オレが払うからな』と言ってさっさと歩き出してしまった。さすがにオレが誘ったのにそれは、と断ろうとすれば、有無を言わさず頭を鷲掴みにされた。お願いですから、言葉で言ってください。

「言ったろ、それでも言うこと聞かねえからこうなってんだよ」
「ごもっともです……」

 そんな会話をしながら店まで行って、案内された席につき、注文した料理がいくつか届いたころ。近くに店員が居ないことを確認して、オレは想いを告げたのだ。
 目を、合わせて言うことはできたと思う。だが、そこまでが限界だった。きっと耳まで真っ赤だろうし、隠せるわけもないのに恥ずかしくなって顔を伏せる。応えてくれるだろうか、そうでなくても、受け止めてはくれるだろうか。不思議と、こっぴどい振られ方をするとは思えなかった。
 顔を伏せるだけでは気持ちを落ち着かせることは出来ず、とうとう目を閉じてしまい、そのままの状態で彼の言葉を待った。
 どれくらいの時間が経っただろう。その間、彼からかけられる言葉をシミュレートする。そのどれもが現実味がなくて、結局、彼の言葉を待つ以外にできることがなくなってしまうのだが。
 そして、待ちわびた彼の言葉が耳に届いたとき。オレは弾かれたように顔を上げ、けれど何も言えずに彼の顔を見つめることしか出来なかったのだ。あのとき、確かにオレの心臓は一瞬止まったと、本気で思った。
 だって、さっきまでうるさいほど鳴っていたのに、今は何も聞こえないのだから。


***


「古臭い風習ととるか、歴史ある伝統ととるかはそれぞれだが――」

 じゅうじゅうと、肉が焼ける音がする。遠い音だ。彼の声だけが、鮮明にオレに届いている。先輩にそんなことをさせてはならない、オレが肉を焼いてちゃんと準備しなければと、思っても体が動かない。
 彼は特に気にした様子は見せず、固まったオレをよそに肉をひっくり返しながら言葉を続けた。

「この国では、結婚していることが、社会的な信用を得るためのひとつのステータスになってることが多い。確かに時代は変わりつつあるが、完全に切り替わるのはまだ先の話だろうな。
「独身でいればいいってもんでもないだろう。それを許してくれる土壌は、まだこの国には多くない。そもそも結婚がひとつのステータスになったのだって、『誰かと結婚できるだけのコミュニケーション能力がある、誰かと共生できる人間である』ことを分かりやすく示してくれるからだって話もあるしな。どちらも仕事では必要な能力だ。
「そして誰かを愛せと言われたとき、オレは男と女、性別の違う二人を同時に愛せるような人間じゃない。オレ達は真の紳士でなければならない。もしどちらかを選べと言われたら……オレは、お前を選べない。
「それでもいいというなら、オレはお前の気持ちに応えられる。……オレには、応える準備がある。
「お前がそれを嫌だと言うなら、オレは何も聞かなかったことにする。今日はただ、オレの奢りにつられてお前がついてきただけのことだ。それで話は終わりだ。
「オレは立場に物言わせてお前を縛り付けたいわけじゃない。だから、最後の判断はお前に任せる。
「――さあ、どうする」

 ことんと、焼けた肉の乗った皿が目の前に置かれる。一通り焼き終わったらしい。きっと美味しそうな匂いがするんだろう、でもオレの嗅覚はそんなものを認識する余裕はないようで。
 思いもよらぬ彼の言葉は、衝撃とともに、しかしオレの心にすとんと落ちてきた。――そうだ、オレ達は、シャバの人達とは違うんだ。

 そうか。
 オレ達はどうしたって、死ぬまで一緒に、なんてことはありえないんだ。

 そりゃあ、普通の交際だってそうだろう。結婚を前提とした付き合いだったとしても、様々な要因で、やむにやまれぬ事情で、別れを選ぶ人もいるだろう。
 ――でも、その別れが確実なら?
 確実だと分かっているなら、壊れることが分かっているなら、その関係を、始めることに意味はあるのか。一度始めた関係は、たとえお互いにその気がなくたって、終わる頃には何かしらの傷を残すものだ。それを、オレは、彼に強制しようとしている?
 オレの言葉ひとつで、彼はオレの気持ちに応えてくれるという。それに甘えてもいいのか? 優しい彼を、いつか傷付けると分かっていながら、オレは彼の手を掴んでもいいのか? 許されるのか? 許されていいのか?
 ぐるぐると回る思考。考えるのを止めるな、考えろ、考えろ。お互いにとっての最善は、オレ達の最良は。――彼にとっての、幸福は。
 考えて考えて、出てきた答えに、唇を噛み締める。血が出ようと構うものか。――ああ、どうして今まで気付けなかったんだ。
 彼を傷付けるだろうことが分かっていて、どうしてオレの気持ちを押し付けることができる? 幸せにしたい人を、将来苦しめることがわかっていて、どうして今、幸せを感じられる?
 自分はまだまだなのだと思い知らされる。何も分かっちゃいなかった。想いを伝えて、応えてもらえたならそれで幸せになれると思い込み、そこで考えるのを止めていたんだ。

「分かりました」

 声は震えていないだろうか。震えていても、気付かないふりをしてほしい。これだけ周りが騒がしいなら、もしかしたら震えていることには気付かれずに済むかもしれない。声だけ、声だけ届いてくれればいい。

「すみません。そこまで、考えていませんでした」

 彼の目を見るには、あまりにも申し訳ない気持ちが先立ちすぎて、さらに視線を落としてしまう。

「……今日の話は、聞かなかったことにしてください」

 気持ちに応える準備はあると言ってくれた。言ってくれただけで、もう十分だ。
 そうだ、オレは十分だ。――オレは。
 でも、この人は、どう思っているんだろう。
 応える気持ちがあると言うのなら、同じ気持ちを持ってくれていると考えてもいいのだろうか。お互いに両想いだと、分かったうえで告白をなかったことにされるこの人は、傷つきやしないだろうか。
 そっと、顔はあげずに視線だけ上げた。真正面から彼を見つめる勇気がなかった。
 視線の先の、彼の顔を見て、思わず胸に手をやった。――ああ、そんな顔をしないでほしい。
 そんな、わがままを言っている子供を、やれやれと宥めるような顔は。
 仕方のない奴だなと笑うその顔は、どうしたって今のオレには苦しくてたまらないのだ。

「忙しいのに、時間をとらせてしまって、すみません」

 ――きちんと、自分の気持ちは整理しますから。できますから。明日からまた、ご指導よろしくお願いします。
 そう言い切って、口を閉じた。できることなら今すぐ立ち上がって店を飛び出したいが、まさか先輩を置いて先に席を立つわけにもいかない。彼が何かを言わない限り、立ち上がらない限り、この沈黙は終わらない。
 重苦しいそれに耐えられず、顔がさらに俯いているのは分かっていた。それでも、もう、頭を上げられない。少し前の自分を恨んでももう遅い。乾いた喉は、唾ひとつうまく飲み込んではくれなかった。

「近藤」
「……はい」

 長く続くかと思われた沈黙は、一分もせずに破られる。その声色は、先ほど見た表情と大きく変わらないもので。
 なんと言われるのか、息を呑んで待っていれば。

「視線不備」
「え? あ、し、視線不備!」

 その声色からは想像もつかない言葉に、一瞬思考が停止する。防大生にとって上級生の言葉を復唱するのはもはや呪いのようなもので、復唱と同時に、上がらないと思っていた顔も上がった。
 上がった先の、彼の表情に、心臓が止まるかと思った。一瞬経って、やはりこの人は優しいのだと思った。

「坂木さん」
「そんな顔して、オレが納得すると思ってんのか?」
「……どんな顔、してますか」
「あ? オレのこと諦められませんって顔だ」
「そんなつもりは――」
「だろうな」

 だが、さっきの断り文句も嘘じゃなかったんだろうと、そう言って彼は髪をかきあげた。

「一から説明した方がいいな、これは。今のお前に考えさせるとろくな事にならねえ気がする」
「すいません……」
「構わねぇよ。……オレはな、近藤」
「はい」

 居住まいを正して彼の言葉を聞く。固くなるなと言われたが、それは土台無理な話だ。

「何もお前の気持ちを否定しようってんじゃねえんだ。それは伝わってるよな?」
「はい。応える準備はあると……」
「ああ、あるさ。お前からの言葉を待ってるのだって、さっき言ったように、上級生のオレから告げたんじゃお前、応えることを強要されてることになるだろう」
「そんなことは!」

 あなたから想いを告げられたなら、オレはきっと、一も二もなく了承していたに違いない。

「一般的な話をしてるんだ、落ち着け。……だが、オレ達はどうしたってシャバの人達とは違う生活をする。求められるものも違う。それをお前は分かっちゃいないようだったから、事前に説明しただけだ」
「……事前に」
「そうだ。……オレ達は忙しい。一学年のお前は特にそうだろう。こうした話し合いする時間を、今後作れるとは限らない。話し合いの場を設けられない場合、その間のお前はひたすら一人で考えるしかないわけだ」
「……オレ達にそんな暇はないと、言いたいんですね」

 ゆっくりと頷く彼の目は、先ほどとはうってかわって真剣そのものだった。

「誰かを愛するのも誰かに恋するのも自由だ。基本的に内恋を否定してるオレが言うと説得力がないけどな。だが、それに気をとられるようなヘマをしてもらっちゃ困るんだよ。オレ達は遊びでここに来てるんじゃない、そうだろ?」
「はい。…………」

 はい、と。重ねて答える。それぞれ掲げる夢は違えど、この国のために、あるいは誰かのために、オレ達はここに集ったはずなのだ。少なくともオレの知る仲間たちはそうだった。きっとこの人もそうだ。
 間違っても、恋に、愛に、悩みうつつを抜かす暇などないはずなのだ。それでも人は恋をするし、誰かを愛してしまうのだろうが。

「オレはお前の想いを否定したいんじゃない。応えられるものなら応えたい。だが、オレ達がそういった仲になるには問題が多い。……オレ達の間に横たわる問題のひとつと、来たるべき未来をオレは事前に提示しただけだ。そのうえで、それを理解したうえでのお前の気持ちを、今ここで聞きたい」

 いつかお互いに違う誰かを愛さなければならないこと。いつか必ず、この関係が破綻すること。

「理解したうえで、もう一度考えろ。……今ならまだ、浅い傷で済む」

 お互いを本気で愛し合ってからでは遅いのだと言って、彼は口を閉じた。あとは、オレの答え次第だと言いたいのだろう。
 事実、その通りだった。あとはオレが答えを出すだけだ。
 もう既に、オレがこの人に告白した時点で、お互いに浅からぬ傷は負っている。それをより深いものにすると分かっていながら先に進むのか、それともこの想いに終止符を打つのか。オレの一言で、本当に全てが決まるのだろう。
 そして、この人はもう覚悟しているんだろう。オレがどちらを選んでも、それを受け入れる覚悟を。
 この人はオレ達のこれからのことを、そしてオレ自身のことを考えて何も言わないことに決めたに違いないと、今なら分かる。それはこの人が、オレの想いに応える準備があると言いながら、それに反するように『考えろ』と言い続けることからも読みとれた。
 その関係がいつか終わるとき、オレが傷つかないように。『考え直せ』と言いたいんだろう、本当は。でもその言葉は、オレの想いを否定することになるから使わなかった。応えたいと思ってくれているのは本当だと思う、けれどそれ以上に、きっとオレが傷つかない道を示してくれたんだ。
 オレが想いを告げるなら応える準備を、けれど告げないならばその想いに蓋をする。いつから考えていてくれたのかは分からないが、彼はそう思って黙っていてくれたのだろう。優しい人だ。あくまでも『準備』でしかないところも含めて、彼はとても優しい人だ。

 だが、もうその優しさに甘えてはいられない。
 口火を切ったのはオレだ。
 ならば、終わりを告げるのもオレであるべきだ。
 顔を上げろ、近藤勇美。

「……オレは」
「おう」
「告白して、あなたが応えてくれれば、お互いに幸せになれると思ってました」
「一般的にはそうだな」
「でも、その後のことを考えきれてなかった。まず、そこをお詫びします」
「ああ。それで?」

 彼はオレから目を離さない。離してくれない。だからオレも、彼からの目を離せない。逃げ出したい気持ちを叱咤して、いっそ睨めつけるように彼を見つめる。怒っているなどと誤解されたくない、けれどそうでもしないと、涙がこぼれそうだった。

「坂木さんに、オレの想いを受け止めてもらえたこと、嬉しかったです。断られるとばかり思っていたから、その言葉が聞けただけでも嬉しいです」
「……そうか」
「でも、オレは、それじゃやっぱり足りないみたいで」

 オレ達は、恋だの愛だの、そうしたことに悩んでいる暇はない。彼は数ヵ月後には卒業し、より良い幹部自衛官になるべく更に精進を重ねるのだろう。オレは二学年になり、初めての後輩を持つ。カッター競技会だってある。まだまだ学ぶこともたくさんある。つまりはお互いもっと忙しくなるし、それらはなにかの片手間に行えるようなものではないのだ。
 だから、オレ達はここで、はっきりと結論づけるべきなんだ。進むのか、捨てるのか。結論なんてほとんど出ているようなものだけれど、でも、決心するために必要な情報が、まだここには出揃っていないから。
 そして、オレが、そう、なによりもオレが、聞きたいから。――あなたの言葉を。

「坂木さんの言葉を、聞かせてくれませんか」
「……オレのか」
「はい。坂木さんは、オレの想いに応える準備がある、応えられるなら応えたいと仰っていましたが……まだはっきりと、あなたの気持ちを聞いてないから」

 どれくらいオレのことを好きだと思ってくれているんだろうか。オレと同じくらい? 一体いつから? オレの告白を受けて、あなたはどう思ったのか。
 聞きたい。彼の言葉を、彼の想いを。
 一言でいいから。全部教えてくれなくてもいい。
 ただ一言、あなたの言葉がほしい。

「それが聞けたら、もう、満足です。あのとき聞いておけばよかったなって、後悔してたら、ここで決断した意味がないから」
「そうすれば、お前はオレを諦められるんだな」
「頑張ります」
「もしできなければ?」
「表には絶対に出しません。坂木さんにも迷惑はかけません」
「…………」

 ポーカーフェイスには自信があるんですよと、つとめて明るい声を出す。すぐにバレる虚勢でも、やらなきゃいけないときがあるんだ。そう、まさに今みたいなとき。
 何かを、終わらせるとき。

「……駄目、ですか」

 坂木さんは何も言わずに、テーブルの上で手付かずのままだったグラスに手を伸ばす。そして、既に温くなっているであろう水を一息で飲み干した。空になったグラスは、天井から降り注ぐ照明の光を反射してキラキラと輝いていて、坂木さんはそれを手の内に収めたまま、じっと見つめている。
 そして、静かに息を吐いた。

「好きだ。――好きだったよ」

 餞別だと言わんばかりに、微笑んだ彼の瞳に浮かぶ別れの色を、オレは確かに見たんだ。


さよならに溺れるまなざし