追いつきたいと
 望んだのは、

「左様ですか。では元に戻ったらお知らせくださりませ」

 それまで術比べは無しとしましょう。
 霊基バグによって、それはそれは大きな白狐の姿になってしまった安倍晴明に、蘆屋道満がさらりとそう言って部屋を出ていってしまったとき。晴明はなにかの聞き間違いかと思ったのだ。
 しかし彼の優秀な耳はきちんと機能していたし、道満がその場から立ち去ってしまった現実も変わらない。術比べはしばらくやらないと、言った道満の平坦な声だけが妙に頭に残っている。
 たっぷり数分間の沈黙を経て晴明の口から飛び出したのは、「は?」という、最優の陰陽師には似つかわしくない間抜けな声だった。


***


 それから一ヶ月が経った頃。
 未だに霊基バグは直らず、晴明は狐のままだった。それは晴明と道満との術比べが無くなって一ヶ月経ったということでもある。ていてい、と晴明がちょっかいをかけて、それに道満が応えて言い争いになることはあれども、決して術が飛び交うことはない。これまでとの決定的な差異に、カルデア陣営の精神衛生はそろそろ限界を迎えつつあった。
 なので、晴明は道満を自室へと呼び出すことにした。強制的に自室に連れていくこともできたが、生前の決別や突然のリンボ化で、すこーしだけ反省した晴明は、事を起こす前にきちんと話し合いの場を設けることにしている。
 ほとんどが道満の反発からの拒絶に終わり、結局は無理矢理引っ張っていくことになっているのだが。それでも以前よりは少しだけ、本当に少しだけ関係が良好に進展しているのを晴明は感じていた。周りからすると何も変わっていないように見えるそうだが、晴明には分かる。むしろ自分以外は知ってくれるなとさえ思っている。
 とにかく、晴明は道満に話があるのだと声をかけた。そろそろこの事態を収集しなければならないからだ。周りへの被害が――主に精神的なそれが、甚大になりつつある。自身への被害に限定すれば、既にもう甚大だった。
 大丈夫なのか、何かあったのか、とうとう愛想を尽かされたかこの腹黒、等々。最後の台詞の発言主たる女狐にはきっちりお仕置きをさせてもらったが、彼女に八つ当たりをしたところで何も事態は進展しない。
 呼ばれた道満は、「分かりました。夜でよろしいですか?」と特に抵抗することなく約束をとりつけにきた。普段の彼を知っている者からすると違和感しかない状況だが、もうこれが一ヶ月続いている。道満が夜に行く、と言った理由も、怪しい理由はひとつも無いのだ。一ヶ月間、ずっと同じ理由である。
 実際に今。約束をとりつけた午後9時ちょうどに、道満はペット用のブラシを片手に晴明の部屋を訪れた。……うん、入浴後のブラッシングは大事だよね、うん。気持ちいいから嬉しいけどね、うん。
 挨拶もそこそこに、道満は部屋に備え付けられている寝具に腰を下ろし、ぽんぽんと自身の膝を叩いた。頭を乗せろと目で促す。普段からこれくらい素直なら良いのにと思うが、だからといって今のこの状況を甘んじて受け入れるわけにはいかないのだ。いや、ブラッシングはしてもらうけれども。
 ぼふ、と道満の膝に頭を乗せれば、道満は慣れた手つきでブラッシングを施していく。これがまた気持ちいいので、晴明はつい、尻尾をぱたぱたと揺らして喉をゴロゴロと鳴らしてしまうのである。
 時折、道満の頬に尻尾が当たるが、道満は気にした様子もない。ほんの少しの謝罪の意を込めてちらりと視線を寄越しても、「なんです、眠いなら寝ていればいいでしょう」と言ってまたブラッシングに戻ってしまう。毛並みを整えながら、ぼそりと「今度、梳き鋏を持ってきましょうかね」と呟いたことを晴明は聞き逃さなかった。絶対にやらせないのでそのつもりでいてほしい。
 狐の身体の隅々までブラシを通し、絡まった毛をブラシから取り除く。そして取り除かれたそれを懐に入れておいた小袋に入れ、再び懐に戻し、何事も無かったかのように道満は晴明の身体を押しやった。こらこら。

「捨てなさい」
「呪う際に、良い触媒になるので……」
「こらこらこら」

 術比べをしないだけで、その下準備は入念に行っている道満だった。
 晴明はため息をひとつ吐き、前動作なく五芒星を空間に浮かべて道満の懐から小袋をぺいっと取り出す。途端、小袋は青い炎に包まれて跡形もなく焼失した。その様子を特に抵抗することなく黙って見ている道満の目は、晴明の術を見たときによくする悔しそうなものではなく「ああ、燃えたな」くらいの感慨のないもので。
 つまらない、と晴明は思う。

「ここに呼び出したのは、ほかでもなくてね」

 もはや日課となったブラッシングの時間も終えたことだしと、晴明は思考を切り替えて道満の隣に座る。それに対して、嫌そうな顔をしても何も言わない道満に、胃のあたりがむかむかとするのを晴明は感じていた。――姿かたちが違うことが、そんなにも不満か、道満。

「最近、全く私に術をかけてこないじゃないか」
「ひと月前に申し上げました通り、貴方がその姿で居る限り、術比べはいたしません。少なくとも拙僧からそれを申し出ることは無いと思っていただきたい」
「……一応聞いておこうかな。何故そう頑なに、私と戦おうとしないんだい、お前は」

 たとえ姿かたちが違えどもこの力、まさしく安倍晴明のそれであるということなど、分かっているだろうに。
 晴明の言葉に、道満はついと顔を逸らした。

「その様子だと、拙僧が何を思って貴方との術比べを避けているのか、お分かりのようではありませんか。であれば、言う必要はございません。その通りですので」
「……天の御使いと同じ姿ということが、そこまでお前の中で重要視されているとは思っていなかったよ」

 いつもならここで、からかいの言葉のひとつでも投げてやるのが安倍晴明という男だった。分かっていながら分からないふりをして、道満がそれに気付くのも分かっていて、それさえ分かっていることを道満に知られるようにわざと態度に出して言うのだ、「いいや、分からないなあ」「教えてくれないか、道満?」と。
 だが今はやめておこうと、晴明は本題に入ることにした。カルデアのリソース配分にも関わってきているこの問題について、霊基バグの直る見込みがまだ立たぬというのならこちらから、二人の関係性から解決していくほかにない。
 ふさふさと生えている尻尾が、右に左にと大きく揺れる。それはそれは不満そうに。わざとらしく尻尾が頬に当てられる度にそれをぺしぺしと払い除けて、道満は言う。

「拙僧は、陰陽師としての貴方に勝ちたいのです」
「能力は人型のときと変わらないはずだが」
「本当に?」

 逸らされていた視線が交わる。晴明の心の内を暴かんとする目を見て、やはりこの男は自分の横に並び立つに足る男だと晴明は笑う。狐姿のため表面上その表情に大きな変化はないが、確かに笑ったと道満は気付いた。
 道満の気付いた様子に、更に晴明の笑みは深くなる。――お前だけだよ、私をそこまで見てくれるのは。

「それは、貴方にその力を授けたとされている神への冒涜では」
「……まあ、この姿になって力が増幅しているのは感じているよ。実際、カルデアのリソースをだいぶ食ってしまっているようだしね」

 神の御使い、時には御神体と崇められる狐の姿を象るだけならまだしも、その力は真に神より授けられたものである。神の領域に近付けば近付くほど、その姿が力を授けたとされる狐の姿に近付けば近付くほど、力が増大するのは当然だった。

「そうして増大した力は陰陽師として、貴方が研鑽を積み重ねて得たものではないでしょう? それでは意味がありません。拙僧はそのような力に勝ちたいのではない」
「……お前は細かいねぇ。今の私に勝てれば、それは陰陽師としての私に勝ったと同義じゃないのかい。ほら、今の私の方が強いし、大小関係の問題だよ」
「全く同義ではありません。神の御使いになった貴方に勝って何になるというのです? それは貴方では、安倍晴明ではないでしょう」

 貫く視線に、ああ、と晴明は嘆息する。
 その言葉を、かけてくれる者がどれだけ希少な存在か、貴重な存在なのか、目の前のこの男だけが気付かない。

「貴方の見立てでも、まだ元に戻る見込みはありませんか?」
「魔術と呪術は少し違うからね……この霊基バグは、要は私の呪術の暴発が原因みたいで、ちょっと対処に困っているところはあるらしい」
「貴方自身で対応すればよろしいのでは」
「その途中でカルデアのリソースが尽きるよ」
「それは……では、どうするんです」
「私は天才だけどね、魔術と呪術、そして科学の合わせ技はまだ未熟なんだ。そのあたりは顧問達の方が今のところ得意だから、このまま気ままに待つしかない。この手では本も捲れないし、術の使用も最小限にと、マスターに言われているからね」
「そうですか」

 ではもうこの部屋に用はありませんと、言って道満は部屋を去ろうとする。だが、それを許す晴明ではなかった。

「こら、待ちなさい」
「ぐえっ」

 背中を向けた彼の服の襟元に噛みつき、ずりずりと寝具の方へと引き戻す。じたばたと暴れる彼の手は時折、晴明の鼻先を掠めるがそれを気にする晴明ではなかった。道満を先程と同じように寝具に座らせ、動けぬようにと膝に頭を乗せる。

「何を!」
「話はまだ終わってないよ」
「拙僧が貴方に術比べを仕掛けない理由について話し合いたかったのでしょう、もう話しましたよ」
「お前の私への態度については、致し方ないとしよう。思いがけず嬉しい言葉をかけてもらえたことだし」
「……? なんの事です」
「そんなに警戒しなくてもいいよ、楽にしていなさい。本当に、ただ嬉しかっただけだ」
「…………」

 穏やかに微笑む晴明の顔を見る道満の目は疑いに満ちていた。じっくりとっくりと晴明の様子を観察し、その言葉に嘘偽りがないことを確認して、首を傾げた。何か特別なことを言ったつもりは無かったのだが、この男が良い思いをしたと言うのなら腹立たしいような、自分の言葉に何かしらの反応をしたらしいということがむず痒いような、そんな感覚に陥る。
 この感情に名前をつけるなら何だろうかと考えそうになり、道満は放漫にかぶりを振った。この男が呼び止めるなら、他にちゃんとした理由がある。まずはそれを聞いて、くだらなければ罵詈雑言でも浴びせかけてやろう。そう決めて、道満は視線で話の先を促した。それを読み取った晴明が口を開く。

「このままいくとカルデアのリソースを食い尽くしてしまうのでね。道満、お前の力を貸してほしい。私一人の力でやろうとすると、否応なくリソースが尽きてしまう。作り上げる術式の、ひとつひとつの容量が大きいので」
「要は拙僧の呪力が必要なのでしょう? 拙僧の呪力を用いて術式構築の半分を肩代わりせよと、そういうことですね」
「いや? 三分の一でいいよ、半分も肩代わりしたんじゃ、お前が座に還ってしまうからね」
「…………」

 ――やっぱり儂、こいつ嫌い。
 元に戻ったら絶対に呪い殺してやると、道満は固く心に誓った。

「お前が術比べのひとつでもしてくれたら、すぐに解決したんだけどね」
「……術比べの最中に呪力を吸い取って術式を構築する、などと抜かせば殴ります」
「ははは、よく分かってるじゃないか」

 ごちん、と晴明の頭に拳骨が落ちた。きゃうん、と哀れに鳴いてみせる晴明に、もう一度。

「やめなさいやめなさい、結構痛い」
「ふざけたことを仰るからです。……貴方であれば、わざわざ術比べの最中に限定せずとも、奪い取れたでしょうに」
「うーん、できたけどね。でも、そういうことはやらないようにしてみようと思って。ほら、話し合いは大事だろう?」
「術比べの最中に呪力を奪い取ろうとしておいて? 『話し合い』……?」
「呪力もらうねって言ってからもらおうかと」
「それはただの犯行声明では」
「人聞きの悪い、お前が頷けば話し合いとして成立するよ」
「しません」

 絶対にしません、ともう一度否定して、道満は両腕を軽く広げた。その様子に、おや? と晴明は狐の身体で器用に首を傾げてみせる。このまま暴れて部屋を立ち去ろうとして、それを自分が止める流れになるかと思ったのに。

「――? どうしたんだい」
「さっさと奪えばよろしい。――拙僧が肩代わりするよりも、貴方が拙僧の呪力を用いて術を行使した方が早く終わります、悔しいことに」

 本当に悔しそうな顔と声で、道満が言う。

「此度は拙僧も抵抗いたしませぬ。マスターがお困りなのでしょう? 早うなされませ」
「…………」

 致し方なし、といったふうにため息をひとつ吐いて道満が言う。あくまでもマスターのためという体裁で、事実その面はあるのだろうが――それだけではないことを晴明は知っている。
 知っているからこそ、今回は意地悪のひとつもしないことにした。晴明が狐の姿から元に戻らないことに、道満も堪えていることが此度の会話の中で十分にわかったからだ。

「礼を言うよ、道満。……じゃあ、右手を貸しておくれ。そこからお前の力を少し、分け与えてもらうことにしよう」
「おや、てっきり弄ばれるものだとばかり」
「本当に人聞きの悪いことばかり言うね、お前は。……まあ、呼び出したときはそれも考えていたんだが、やめておこう」
「……どういう風の吹き回しで?」

 じとりと道満が晴明を睨めつける。何を考えているのだこの性悪、とその顔に書いてあるが、それに乗る晴明ではない。するりと道満の頬に自身の頬を重ねて、ぐるぐると喉を鳴らす。

「お前のためにも、早く人の姿に戻りたいのでね。遊ぶのはその後にしよう」

 その言葉に一瞬、道満が気色ばみ大きく口を開いたが、それはすぐに閉じられた。口を開いては閉じて、開いては閉じてを繰り返し。
 小さな、本当に小さな消え入りそうな声で道満が呟く。

「……分かっているなら、早く戻りなさい、晴明。――貴方が貴方でないなど、つまらないのですよ」

 そう言って逸らされた横顔の、赤い頬に獣なりの口付けをひとつ。
 人あらざる者として崇められる、彼なりの愛を込めて。

「もちろん。――お前がこちらを向いてくれないのは、それこそつまらないからね」


追いつきたいと望んだのは、