かくして
地獄の門は開き、
深海調査用潜水艇・かいえん一号。
この潜水艇が深海に潜るのは今回が初めてである。ましてやその目的地は、これまで人類の科学力では立ち入ることの許されなかった最深海。――つまり、予期せぬエラーが発生してもおかしくはない。
ゆえにアオギリとマツブサはしばらくの間、コックピットに留まり潜水艇の動きを注視していた。万が一にも浸水するようなことがあれば、即座に作戦は中止である。人間は海の中で生きられるようにはできていないのだから。
水漏れはないか、軋むような音は聞こえないか、計器の数値に異常はないか。もっぱらその確認は海での活動に詳しいアクア団に任せることになっていたが、最終的な判断は二人のリーダーに任されている。コックピットを満たすのは潜水艇が深海へ潜る音と計器の作動音、そして張り詰めた沈黙だけであった。
そして、水深が三十メートルを超えるころ。操縦していた団員たちがお互いに顔を見合わせる。そしてそのうちの一人がアオギリとマツブサの方を振り返った。力強く頷くその顔は、この潜水艇が確かに正常に作動していることを十分に示していた。
「よし。……お前ら、持ち場につけ。ホムラ、アクア団とやりあうじゃねえぞ」
「シズクさんはこのままコックピットの管理を担当してください。マグマ団の監視も。……できますね?」
リーダー達の言葉に、呼びかけられた二人の幹部は互いに睨み合いつつも静かに頷く。それを見届け、二人は団員達を残しコックピットを後にした。
***
有人潜水調査艇にしては珍しく、かいえん一号にはもうひとつ部屋がある。当然広くはなく、むしろ狭いとさえいうべき広さだが、さすがに団員がひしめくあのコックピットの中で過ごすことには耐えられそうもなかった。
二人は、そのもうひとつの部屋へと入り扉を閉める。そして事前に準備しておいた二つの椅子を取りだし、それぞれ向かい合う形で座った。
「あとは海底洞窟に行くだけってわけだ。長年の計画も成就は目前。……どうよ、ご感想のほどは?」
「なにもありません」
そう言ってアオギリは腕を組み、目を閉じる。ご丁寧に足まで組んで、その右手にはトドゼルガの入ったモンスターボールさえ持って、彼は全身でマツブサとの対話を拒絶していた。
しかし、それに怯むマツブサではない。アオギリのそんな態度はいつものことだし、むしろそうでなければ調子が狂うというものだ。
「つれねえな。こうして話すのも最後なんだぜ?」
「それがどうしたというのですか? 話す仲でもないでしょう」
「そう言うなよ。一か月前だったか? そんときにも一緒に酒だって飲んだじゃねえか」
「昔の話に興味はありません」
「そうか? ……昔の話に興味がねえってんなら、超古代の力にも興味はねえだろう」
「――……それとこれとは、話が別です」
マツブサの言い分に思うところがあったのか、アオギリは閉じていた目を開けてマツブサを睨めつける。そして抗議すべく彼は口を開いたが、マツブサはそれを遮るようにあっけらかんと自身の言葉を訂正した。
「そうだな、まったく別の話だ」
「…………」
「なぁ、アオギリ。……オレはよぉ」
マツブサが言う。
「お前と決着がつけたかったんだ。グラードンとカイオーガ、どちらが強いのか。オレとお前、どちらが強いのか。――ようやくだ」
ひどく楽しげに彼が言う。
「ホウエンを沈めようってんだ、邪魔する輩はさぞ多かろうが……ま、なんとかなるだろ。なんとかできねえ雑魚共を幹部にした覚えもねえ。お前んとこもそうだろ?」
「無論です」
「だったら、最後は一騎打ちだ」
ぐい、とマツブサがアオギリに迫る。互いの吐息が感じられるほどの距離だ。マツブサはその右手の人差し指を、アオギリの心臓にあたる箇所にとんと当てる。
「てめえと、オレと。――最後だぜ、アオギリ」
この脈打つ臓器を、止めるのは他ならぬ自分だと。
マツブサは信じて疑わない。誰の邪魔も許さない。伝説に語られる神々にだって許してなるものか。
「勝つのは、オレだ。――てめえを、殺すのは、このオレだ」
生半可な勝負なんて必要ない。
ただ相手を負かすだけの勝負など、もうマツブサは飽きたのだ。
マツブサの瞳の奥で燃え上がる炎を、アオギリは初めて見た気がした。
出会った日から今日に至るまで目にしてきたと思い込んでいた瞳の奥の幻は、どうやらただの燻りに過ぎなかったらしい。――これほどの炎をその胸の内に秘めていたともなれば、さぞこの世界はつまらなかっただろうと、アオギリをしてそう思わしめるほどの、その炎。
だが。
「――それは」
アオギリは、自身の胸に突き立てられていたマツブサの指に手を伸ばす。視線は逸らさず、マツブサの目を見据えたまま、彼はマツブサの指を自身の手の内に収める。
そして空いているもう一つの手を、彼はマツブサの首へと伸ばした。男らしい、大きな手がマツブサの首を緩く締める。息が詰まるほどではない、しかし確かに違和感を覚える程度の、緩やかな拘束。
忘れてもらっては困る。
この日を待ちわびたのは――なにもマツブサだけではない。
「それは、こちらの台詞です」
お前が、この心の臓を止めるというのなら。
お前の息の根を止めるのは、この私だ。
どれほどの炎をその胸の内に、その瞳の奥に宿そうとも――海の前には、如何なる炎も酸素を失い消え失せる。
「覚悟しておきなさい。……一瞬で殺してなんて、やりませんから」
「……おー、怖ぇ怖ぇ」
アオギリの瞳の奥に、マツブサは海を見た。青く美しいそれではない。すべてを呑み込む、闇のような海を見た。
初めて見たと、そう思った。奇しくもアオギリと、全く同じ理由で。
笑いながら、マツブサがアオギリから体を離す。アオギリは特に抵抗することなくそれを許した。すり抜けるマツブサの指と首を、アオギリは追わない。追う必要もない。
今はその時ではないからだ。……だが、幾度となく紡がれてきたこの言葉も、今日で最後になるだろう。
“その時”は、もうすぐそこまで、きている。
「総帥アオギリ」
響くノック音、聞こえてきたのはシズクの声だ。外の気配は二つ、声をかけてきたのがシズクであるというだけで、外にはホムラもいるのだろう。互いが互いを監視している様子は、コックピットのときから見てとれたからだ。
「そろそろお時間です。安全のため、指定の席にお戻りください」
「分かりました」
アオギリは立ち上がり、椅子を元あった場所へと戻す。続いてマツブサも立ち上がり、彼もまた、椅子を同じ場所へと戻した。
「あなたが元あった場所に物を戻せるとは」
「海で死にたくはねーもんで」
精密機器の塊とも言えるこの潜水艇では、さしものマツブサも自由気ままに、というわけにはいかないらしい。不自由そうに不満そうに、唇を尖らせるマツブサの姿を見るのも、きっとこれが最後なのだろう。
「私の家でもそうしてほしかったものですね」
「昔の話に興味はねぇなぁ」
「……分かりやすい当てつけを――」
「くくく……」
マツブサは喉を鳴らして笑い、廊下へと繋がる扉に手をかける。そして扉を開けようとした、その直前。
マツブサは、背後に立つアオギリの方へ振り向いた。
「じゃあな、アオギリ」
「……ええ、さようなら、マツブサ」
かくして地獄の門は開き、