模倣の深海にて

 知る人ぞ知る老舗のBARであの男を見つけたときは、珍しいこともあるものだと思った。そして彼の浮かべている表情を見て、今日飲む酒が格別なものになるだろうと確信さえした。
 ドレスコードのあるこの場所で静かにグラスを傾けているその男の姿は、普段の騒がしさが嘘のようだ。街中では派手なその髪色も、薄暗い店内では目立たない。場の雰囲気に馴染んでさえいる。ふと、深海ではまず最初に赤色が見えなくなるのだという話を思い出した。この男は、消えそうにもないけれど。
 席へと案内しようとするスタッフに軽く手を上げてそれを遮り、迷いなくその男の元へと向かう。そもそもその男が今座っている席は、普段アオギリが座っている気に入りの席なのだ。

「珍しいですね。貴方がこのような場所にくるとは」

 隣、失礼しますよ。
 形だけの断りをいれて、返答も待たず隣に座るアオギリを、赤い髪の男――マツブサは何も言わずに一瞥する。小さく目を見開いたまま、しばらくの間アオギリを観察していたマツブサだったが、ふいに視線を逸らした。その様子に、おや、とアオギリは片眉を上げる。
(――機嫌が悪いどころの話ではないようで)
 マグマ団に関する動向調査は部下に命じている。しかしここ最近、彼らの主だった行動は確認できていなかった。彼らは自由に、派手に動き回る分、アクア団の情報網に引っかかりやすい。さすがに幹部クラスとなるとそうもいかないが、少なくともしたっぱの動向は把握しやすかった。
 しかしここ最近は、そのしたっぱの姿さえ見当たらない。――『主だった行動が確認できない』こと自体が、『マグマ団に何かがあった』ことへの証左にほかならなかった。
 手の中のグラスをからりと揺らし威嚇するマツブサを横目に、アオギリは彼の持ちうるとびきりの笑顔で、馴染みのバーテンダーにいつものカクテルを頼んだ。目の前で驚いた顔をしているバーテンダーを見て、さらに気を良くする。仇敵をからかい嘲笑うことは、なにもマツブサの専売特許ではないのだ。
 ああ、それにしてもこの高揚感は。まだアルコールも摂取していないというのに。
(癖になる。――マツブサが私をからかってくる気持ちも分かるというものだ)
 だからといって普段の行いを許すわけではないが。むしろこのような感情を毎回相手に味わわせていたのだと思うと腹が立つくらいだ。
 にやにやと笑う普段のマツブサの顔を思い出し、先ほどまでの良い気分が一転する。しかし、だからこそ今のマツブサの反応は面白いのだと思い直した。
 アオギリはマグマ団に――マツブサに何があったのかを知っているわけではない。ここで出会ったのは全くの偶然であるし、マツブサの様子を見るかぎり、おそらく彼もここがアオギリの通うBARであるとは知らなかったのだろう。
 いつものカクテルに口をつけ、横目にマツブサの様子をうかがう。ぬるくなって美味くもないだろう酒を一気に煽り、マツブサはバーテンダーを呼んでいた。手短に注文を終え、目の前で生み出されていくカクテルを胡乱な目で見つめている。

「いい店じゃねえか」

 出来上がったカクテルを受け取り、ようやくアオギリの方へと向き直ったマツブサは、さきほどとはうってかわって笑っている。しかし、こういうときの彼は存外、笑顔を作るのが下手なようだった。

「なかなかのもんだ。素人目にも分かるぜ」
「ええ、そうでしょう。この私が通い続けている場所ですから」
「ふうん。……おめえが海以外の場所を気に入るなんて珍しいじゃねえの」
「ああ、それは」

 ――深海を模したBARなんですよ、ここは。

「……ああ、通りで」

 暗くするにしても、明かりの消し方が不自然だと思ったんだ。

「そういうことかよ」
「良い店と言っていただけて何よりです」
「くそ。腹立つなぁ、おい」

 海を模した店を良い場所だと、褒めてしまった自分が気に食わなかったのだろう。舌打ちをひとつして、マツブサは一気に酒を煽った。そういう飲み方をする酒ではないのだが、言うだけ野暮だろう。この男も、分かっていてそう飲んでいるに違いない。

「二度と来ねえ」
「ええ、そうしてください」

 普段はうまく感情を制御しているマツブサだが、どうも今日に限ってはそうはいかないようだ。その理由はアオギリには分からない、それを探ろうとすれば、ここでポケモンバトルが始まりかねない。それはアオギリの望むところではなかった。
 元来理性的な人間であるこの男が、時たま外れる箍をがちゃがちゃと鳴らしながらはめ直そうとしている。慣れないことをするときは、この男も時間がかかるらしい。
 軽く酒を入れたからか、この男をからかうことのできる滅多と無い機会だからか。面白半分、本音半分の言葉が、アオギリの口からついて出た。

「貴方も人間なんですね」
「……いっつも思うんだけどよ、おめえはオレのことをなんだと思ってやがんだ」

 じとりと睨め付けつつも器用に呆れた顔をしてみせるマツブサに、いい酒の肴ができたとアオギリは笑った。


模倣の深海にて