次に備えろと
誰かが告げる
焦げた外壁の端をなぞるように、指先を滑らせた。
砕け散った窓ガラス。『天使』に引き裂かれた鉄骨の断面。どこまでが作戦による損失で、どこからが想定外の事象だったのか。もはや、正確な判別はできない。
それでも、見ておく必要があった。彼らが、どのような記録を残したのか。この街に、何を置いていったのか。
足元のアスファルトは剥がれ、歩道の縁は崩れている。その縁に片足をかけるようにして立ち止まり、彼は懐へと手を差し入れた。……かつて局長証を収めていた場所。
今はもう、何もない。
あらゆる干渉を拒む加護も――あの時、自らの手で燃やし尽くした。今の自分は、もう何物にも守られてはいない。
それが必要だった。あの作戦を、あの終わりを、確かなものとするためには。
今更、役割の有無で動くつもりはない。局長という立場を失っている今、残っているのはその結果だけだ。それがこの惨状ならば、ただ黙って立ち去るわけにはいかないだろう。
ゆっくりと歩を進めながら、崩れた建造物の影を縫う。
南廷の街はまだ混乱の中にある。煙の匂い、遠くから届く喧騒。だが破壊の余韻に取り残された通り道は、不自然なほどに静かだった。
こつん、と何かが足に当たったことに気付いて、彼は足を止めた。視線を向ければ、そこに転がっていたのは、滑らかに研がれたような金属片。
一見すれば、ただの廃材。だが、それが何であるかを、彼はすぐに理解した。
それは、『胎児』の骨格として存在していた部品の一部。かつて自らが、生み出したものの成れの果てだった。
拾い上げ、しばし手の中に転がす。署名のない欠片。それでも確かに、自分が生み出したもの。自分に繋がっていた過去。
ふと、その手を緩めた。金属片は音もなく手から滑り落ち、瓦礫の隙間に沈んでいく。
手放したかったわけではない。ただ、それを持ち歩く理由も、もうどこにも残っていなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
崩落の爪痕が生々しく残る路地を、彼は足元に注意を払いながら進んでいく。
瓦礫に埋もれた道筋はかつての面影をほとんど残していなかったが、それでも記憶は、ある一角を確かに指し示していた。
やがて、見覚えのある壁面が目に入る。彼は静かに足を止めた。
「……ここにも、作っていたな」
それはどこにでもあるような、何の変哲もないただの壁面だった。近づいて、彼は灰色の壁にそっと手を添える。南廷市にいくつか設置していた、『電話室』の扉のひとつがあった場所だ。
局長証を失った今、その扉の姿はもう見えない。当然、扉が開くこともない。だが、その場所だけは正確に覚えていた。
指先を離し、彼は小さく笑う。
(……造った責任は、こうして残るらしい)
扉のない壁から離れ、瓦礫の奥へと静かに身を滑らせた。
ゆるやかに瓦礫を乗り越え、壁の崩れたビルの影に身を沈める。遠くで救助隊の呼び声がこだましているが、ここまでは誰も来ない、来られない。この街の混乱は、まだ終わっていない。だからこそ、彼にはまだ、この地に隠れる余地があった。
背後で倒壊した鉄骨が、風に軋む音を立てる。上空をかすめていくヘリの音が、次第に遠ざかっていった。
それを見届けた彼は、上着の内ポケットから、古びた携帯端末を取り出す。暗号化もろくに施されていない、旧式の端末。本来なら、とっくに処分されているはずの代物だ。
だが、これは今、彼の手のうちに残っている。その電源を入れる前に、彼はしばしその画面を見つめ、ふっと息を漏らした。
「……これもまた、然るべき終わり方か」
電源を入れ、彼は手慣れた手つきで端末を操作した。記録に残さぬよう、自身の頭の中にだけ留めておいた番号を直接入力していく。
「――いや、」
端末を握る手に、ほんのわずかに力がこもる。画面の向こうに繋がる気配を待ちながら、彼は声にならぬほどの呟きを漏らした。
「まだ、終わってはいない」
濃く垂れ込めていた雲の切れ間から、ひとすじの光が瓦礫の隙間を照らす。彼はそれに気付くと、そっと目を閉じた。
空はわずかに、明るくなり始めていた。
次に備えろと誰かが告げる