その呼び声は
境界を越えて
【01】
寒気が、じわりと背筋を這った。
気温の低下は記録されていない。風も吹いていない。だというのに、誰ひとりとして額の汗を拭おうとしなかった。ここにいる全員が知っている。これは、そういう『気配』だ。
身色指数が異常に下がっている。空間の観測値が、命の気配を否定している。けれど、それでも『いる』のだ。そこに。
視線の先に、ぼやけた輪郭があった。黒い、けれど何かの形を成しているもの。
人型――いや、『かつて人だった』もの。
誰かが息を呑む音がした。武器を握る手に力がこもる気配が、空気を通して伝わってくる。
その輪郭に、センシュウは目を細めた。手元の端末には、何の名前も表示されていない。そこにいるはずの『誰か』を、識別システムが最後まで読み取れないでいる。
本来なら表示されるはずだった名前も、写真も、身体情報も――何ひとつ、そこに浮かんではこなかった。
それでも、彼女はその名を呼んだ。たしかにそこにいる、その人物の名を。
「……隊長」
【02】
映像ログと身色指数、認識パターン、黒煙の密度変動。
そのどれもが、既に規格外の数値を示していた。けれど、それは『情報』として見れば、ただの数字の列にすぎない。
脅威度の判定がどうであろうと、シンリョウにとっての意味は別のところにあった。
黒煙の濃度は、危険基準値を大幅に超えている。周囲の空間には、軽度の因果撹乱の兆候。
解析グラフの傾きは、もはや滑落線に近い。
存在の輪郭は、理論上の『人間』から大きく逸脱しており、過去の敵性超実体との一致率もゼロに等しい。――つまり、この現象は、隊長の現実流失が臨界に近いことを意味している。
だが、彼女の手元の記録端末には、あくまで『測定不能』という単語だけが繰り返されていた。
過去の照合ログにすら名前は残らない。識別システムは、その存在を『誰とも一致しない』と判断している。目の前にいるその存在が、かつてと同じ隊長ではないのだと、データは告げる。
それでも、彼女には分かっていた。目の前にいるその存在が、自分達の隊長であることを。だからこそ、自分がここに立っている意味があるのだということを。
視界の端で、かすかに黒煙が揺れた。
濃度の上昇が再び始まる。沈静化には至らない。数値が揃うたびに、胸の奥が冷えるような気がした。
それでも、指先は震えていない。そのことだけを信じるように、彼女は端末を握り直した。
黒煙がわずかに膨張し、輪郭が一瞬だけ崩れる。その挙動は、過去のログにはなかったパターン。動作の前兆が消失し、直後の動きと同期していない。思考と反応のタイムラグが、通常の敵性超実体と異なる。
(……違う)
これは、『意思』による行動ではない。思考に基づいた反応ではない。
単なる衝動。攻撃とも防御とも呼べない、未定義の動き。
それでも、彼女は目を逸らすことはしなかった。むしろ彼女は、そこに『兆し』を探そうとしていた。
破綻とは、すなわち変化。そして変化という現象には、観測可能なパターンが生まれる。それがあれば、介入の余地がある。その隙間に、まだ手が届くかもしれない。
彼女は、呼吸を一つだけ整える。――隊長の動きが、拡散へと傾いた。黒煙の密度に、一瞬だけ変動が見えた。
「二時の方向! 密度低下!」
短く、必要最低限の言葉だけを告げる。その言葉と、ミンソウが動き出すのは、ほぼ同時だった。
ミンソウが超限スキルを開放し、すでに二手先を読むような動きで間合いを詰めていく。
情報は、行動に引き継がれる。そこに、迷いはない。
(これが、私のするべきこと。……誰かの命令じゃない、義務でもない)
言い聞かせるように、彼女は胸の奥で、言葉を繰り返す。
(『私が』、そうしたいと思ったから。だから、私はここにいる。隊長――あなたを、失いたくないから)
【03】
――冷たい。
反射的にそう感じたのは、身色指数が極端に下がっていたからだ。かつて、同じ現場で何度も感じた、異常の前兆。
いま目の前にあるそれは、もはや『前兆』ではない。現実流失が進行した超実体の姿が、そこに在る。
数歩前に立つその姿は、確かにかつての『隊長』と同じものに見えた。――ミンソウは、その手に構えた武器を『対象』に向ける。
(……認識の、重ね直しが必要ね)
強い気配だった。
現実が、擦り切れる音がする。見えているのは『隊長』の形をした何か。かろうじて人の形を保つ、煙の塊。これまで感じたことの無いほどの寒気がする。しかし、目の前の存在は、もう――
(寒さなんて、感じていない)
震えるまではいかない、けれど感覚が鈍るような気配が、手先からじわじわと広がる。
数値上の異常はない。それでも彼女は、肌で感じていた。ここは既に、安全ではない。
顔も目もないはずなのに、まるで『誰か』を見返すような気配。観測されていることを、『それ』もまた、察知しているようだった。
ミンソウが一歩踏み出したその瞬間、体の周囲を圧するような感覚が走った。認識の縁が歪む感覚に、構えた武器を握り直しながら、それでも視線を逸らすことなく、その輪郭を注視する。
そして――彼女は軽やかに跳ねた。
低く、素早く、迷いなく。
相手の攻撃を受け流す。次の瞬間には、肩口を掠めて通過した黒煙が後方へと抜けていく。高速移動を繰り返しながら、執拗に追ってくるその動きは、かつての隊長の行動パターンに酷似している。
だが、違う。あくまでも似ているだけだ。――ほんのわずか、その間合いが甘い。
(貴方の行動パターンも、思考の癖も、知っています。……そこから外れた行動こそが、抜け道になることも)
黒煙が身を翻すのを見切って、彼女は地を、空を蹴る。即座に距離を取り、呼吸を整える。応戦の刃は振るっていない。彼女の任務は別にある。
(こんな形で貴方と戦うことになるなんて、思ってもみなかった)
そう思ったことすら、贅沢なのだろうか。
隊長の姿を借りた『それ』は、何の感情もなくこちらを追ってくる。それはただ、ミンソウを敵とみなしてのことか、それとも。
(今の『隊長』は、既に正常な認識能力を持っていない。これらは過去の記憶や、戦闘パターンの模倣に近い)
跳躍し、躱しながら、相手の背後に回り込む。黒煙が、わずかに揺らめいた。
足元の地形が変わる。『隊長』の現実流失に伴い、周囲の構造すら揺らいでいる。視界の端が黒ずみ、空間の明度が変化する。もはや、構造物の中とは言い難い。
けれど、足は止めない。止めてはならない。
《二時の方向! 密度低下!》
通信機越しの報告とほぼ同時に、彼女の体は動いていた。――来る。
黒煙の波が引く。その予兆は、対峙するミンソウも、確かに感じ取っていた。
過去の記録とは異なる行動パターン。だが、それこそが『隙』だ。
訓練通りに動かないことを歓迎するように、ミンソウは即座に動きを切り替える。黒煙の揺らぎが、一瞬だけ止まる。
(――今!)
彼女は黒煙の一撃を逸らすように舞い上がり、射線をずらすように横へと流れる。『隊長』の身体――否、身体だったものが、彼女の動きを追いきれず、その姿勢が傾いた。
「チュウゲン!」
叫ぶ。低く、短く。その声が届ききる前に、もう彼は動いていることだろう。重みのある足音が、背後から駆けてくる気配がする。
攻撃を防ぎ、仲間の一手に繋ぐ、守りの要。ミンソウはその動きに合わせて、場の流れを整える。――そうすれば、彼らが動ける。
次の一手が、届く。
(私では、足りない)
だが、この力を振るう場所なら分かっている。だから――彼女は走る。
全身を駆使して隊長の動きに追いつき、次に動くべき者たちの足場を作る。それが自分の役目だと信じて、ミンソウは再び駆けた。
【04】
ミンソウの声が響くより早く、チュウゲンはすでに動き出していた。
歪んだ空間の隙間を突くように、わずかな足場を踏みしめる。今、この瞬間に必要とされている自分であるために、彼はその一点にだけ、意識のすべてを集中させていた。
隊長の視線が仲間に逸れる、そのわずかな気配にすら反応する。誰よりも早く、そこに割って入るために。
ミンソウがこじ開けた、一瞬の隙。しかしそれは、相手にとっても同じことだったらしい。
隊長が大きく前へと踏み込んだ。シンリョウの観測網の隙間を突いて、黒煙を伴う攻撃が、迷いなく繰り出される。――だが。
(――通さない!)
その攻撃は、鋭い金属音とともに何かへと衝突し、誰に届くこともなく霧散する。
鋼よりも硬く、どんな信念よりも強いその盾は、相手の攻撃を受け止め、そして静止した。
「……悪いな、隊長」
かすかに息を吐きながら、チュウゲンは目を細める。それは、挑発でも警戒でもない、祈りに近い声。
「ここに、俺がいる限り。誰も、何も、通させやしない」
すぐそこにあるはずの温度が、まるで感じられない。隊長を取り巻く空間は、まるで現実から隔たっているように、凍りついていた。
それでも、まだ、人の形をしている。
かろうじて――けれど、確かに。
(……それなら、あんたはまだ、戻ってこられる)
だからこそ、守るのだ。
「誰も倒れちゃいない。全員、生きてる。ちゃんと、ここにいる」
どれだけの言葉が、今の隊長に届いているのかは分からない。
「俺が、ここにいる限り――」
だが、言葉にしなければ。
届くものも、届かないじゃないか。
「――あんたが、誰かを傷つけることはない」
今はまだ、届かなくてもいい。
ただ、正気に戻ったこの人が、自分自身を責めないように。
苦しむようなことが、ないように。
隊長を取り巻く黒煙に、かすかに揺らぎが走った。これまでの揺らぎとは何かが違うそれ。……わずかでも、この人に『届いた』のだと、そう思いたい。
「大丈夫だ、隊長。……俺が全部、守ってみせる」
背後にあるのは、仲間達の命。
そして――この人の、未来だ。
【05】
冷たい風が吹き抜ける。その中心に、崩れた光と現実の綻びを纏いながら、その人は立っていた。もう誰の声も届かぬほどに深く、現実から遠ざかったままに。――けれど、完全に消えたわけじゃない。
センシュウは、ごわついたグローブを両手にはめ直した。ずっと、ずっと前に、隊長から贈られたもの。どんな任務でも身につけてきたそれを、いつものように装着し、彼女はそこに居た。
その周囲で、誰もが動いていた。ミンソウが慎重に機を探り、チュウゲンが防護域を展開し、シンリョウが状況分析の指示を飛ばす。
そうして導かれた、接触の機会。すべてが繋がり、託されたこの瞬間。――彼女はただ、その手を差し出した。
「――寒いでしょう? 隊長」
静かな声だった。
黒煙の中、かろうじて見分けがつく人影が、わずかに身じろぎする。
「……まるで、昔の私みたい」
久しく浮かべていなかった昔の顔を、彼女は自身に張り付けた。
「近付く人、皆を攻撃して、身を守ろうとする。……ああ、違う。あなたの場合は違いますよね、きっと」
現実を喰われ、寒気をまとったその人は、近付くものすべてを拒絶していた。それは、意思ではない。恐れでも、悲しみでもない。何もかもが流失した末に残された、本能だけの反応。
しかし、その反応の奥にあるものはきっと、過去の自分とは異なるものだ。
「傷付けたくないんでしょう、私達を。……あなたは優しいから。何もかも分からなくなっても、失ってしまっても、あなたは、ずっと優しかったから」
ただすべてを嫌い、すべてを拒んでいただけの自分とは、きっと違う。
「あの頃の私には、私としての意思がありました。拒絶も、嫌悪も、私の意思によるものでした。……でも、今のあなたには、それすらもない。たとえ、その奥に私達への優しさが残っていたとしても、今のあなたは――本能のまま、ただ、流されているだけ」
ひと息ごとに、慎重に足を進めていく。崩れゆく現実の縁に触れそうになりながらも、決して逸れず、逃げず、その視線を逸らさない。彼女が伸ばすその手は、かつて受け取った温もりを、確かに覚えていた。
「だから、今度は、私の番です。そうでしょう?」
彼女は止まらない。周囲の空気は張り詰めている。誰もが緊張の中にいたが、センシュウの中には確かなものがあった。
あの手の重み。その言葉の優しさ。それらを受け取った記憶が、彼女を前へと押し出していた。
「あなたが教えてくれたすべて。差し伸べられる言葉の、ひとつひとつ。誰かのために向けた振る舞いの、ひとつひとつ――その温かさを、私は、私達は知っています。あなたが、くれたものですから」
言葉というものが、崩れかけた心をどれほど縫い合わせてくれるのかを、彼女はもう知っている。暗闇で何も見えない世界で、そっと差し出される手の、その輝きも。
だから彼女はただ、手を伸ばす。その手が届く先に、果たして応答があるのかは分からない。けれど、今は信じられる。かつての自分がそうだったように。
きっと、この手は届くだろう。そう信じられるようになったのは、――あなたが、私にそうしてくれたからだ。
「……ほら、こっちですよ」
かける言葉に、迷いはない。ただ静かに、道を指し示すように、センシュウは呼びかける。
「『手』の鳴る方へ。皆の声が聞こえる方へ。……温かな方へ。明るい方へ――」
彼女の目には、かつての隊長の姿が、確かに重なっていた。
「それが、あなたの居るべき場所ですよ。――隊長」
【06】
沈黙のなかで、何かがわずかに揺れた。隊長の呼吸めいた音は荒いまま、そしてその意識もまだ、混濁しているようであった。
それでも、彼女の差し出した手の先で――隊長の指が、かすかに動いた。何かを掴もうとしたのか、それとも反射的な動きだったのか、判断はつかない。
ただ、それが『誰か』を認識しての応答であることだけは、疑いようがなかった。
ふらりと膝を崩しかけた隊長の身体を咄嗟に支えたのはチュウゲンだった。重さのない黒煙を、まるで命そのもののように、彼は慎重に抱きとめる。――その腕の中で、確かに聞こえた、確かに綴られた、音の羅列。
《……し、……げ、つ……》
かすかな声が、夜の気配のように空気を震わせる。……それは、かつて隊長によって彼らに与えられ、そして今まさに失われようとしていた、名前。
その状況を、隊員達は息を呑んで見つめていた。シンリョウが機械を操作する音、電子音だけが響いていたその空間に、にわかに異音が混ざる。
周囲の黒煙がうごめく気配に、彼らは咄嗟に武器を持つ手に力を込め――そして、その動きを止めた。
黒煙は、一箇所に集まりつつあった。在るべき場所へ戻ろうとしているのか、それはチュウゲンの腕の中で横たわる人影へと向かっていく。……少しずつ、それが人の輪郭を取り戻していく。
そしてその場には、大規模な戦闘痕と、電子音だけが残った。
「……身色指数は、上昇に向かっています」
シンリョウの声が、震えている。
「現実度も、……まだ、安定している、とは言えませんが、でもっ、」
なにかに耐えるように、彼女は言葉を切る。彼女の言わんとしていることは、その場の誰もが分かっていた。現実流失の兆しはまだ隊長の身体に残り、再発の可能性も拭えない。
それでも――誰ひとり、もう武器を取ろうとはしなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ようやく、夜が降りてきた。
照明を落とした地下鉄拠点。いつもの場所に、隊長が横たわっている。
黒煙の揺らぎはすっかり穏やかで、身じろぎ一つないその寝息が、時折その輪郭をゆらす。
その傍らに座るセンシュウの指は、冷えきった外気にもかかわらず、ずっと隊長の手を包んでいた。
静かな夜だった。
その場にいる、誰も声を上げなかった。
けれどその沈黙の奥には、確かな安堵があった。
「……ここですよ、隊長」
センシュウが、そっと呟いた。
「私たちは、ここにいますからね」
呼びかける声は、どこか子守唄のように響く。早く目を覚ましてほしいのに、その眠りがどうか穏やかであれと願う。
その言葉に答えているかのように、隊長の胸がかすかに上下する姿を、彼らはただ、見守っていた。
その呼び声は境界を越えて