無い物ねだりに
してなるものか
三大欲求、と呼ばれるものがある。代表的なものとしては、食欲、性欲、睡眠欲の三つだろうか。
私は、まだ序章しか読んでいない哲学書を閉じる。そして、黒煙に覆われ、どこにあるかも分からない瞳も閉じた。
(……私にも、残っているものはちゃんとある)
最初に疑問を呈したのはたしか、ミンソウだったか、それともセンシュウだったか。あるいはシンリョウだったかもしれない。とにかく、隊員達に聞かれたのだ。
「隊長は、食事をとることはできますか?」
「たとえば目の前に食べられる物があったとして、それを『食べたい』と思いますか?」
それについては、すぐに是と答えることができた。黒煙の体の、一体どこから摂取しているのかは横においておくとして。
お茶は飲める。ならば他の飲み物だって飲めるだろうし、食べ物だって食べられるだろう。よほど不味いとか、命に関わるようなものでなければ。それらも、必要があれば摂取するけれど。
睡眠もとれる。それがたとえ意図せぬものだったとしても、極論、意識を失えば多少なりとも肉体は回復はする。気絶することができるのだから、睡眠もとることができると判断していいだろう。実際、きちんと眠っているのだし。
性欲については――うん、これは横に置いておこう。気にならないといえば嘘になるが、今はそれどころではないし、その有無について分かったところで事態は何も変わらない。
私は、私自身あるかも分からない目を開けて、手に持ったままの哲学書を眺める。一説によると、このような三大欲求の中に、睡眠欲ではなく集団欲――何かしらの集団に属していたいと思う欲求――を含めるとするものもあるらしい。
もし、これに当てはめるのなら。
(……私は、どこに)
たしかに私は、『集団』に所属している。
元・オレンジブレイドの隊長。
現・新月の隊長。
今の私を信じて、ついてきてくれる隊員達。
今の私に手を貸してくれる者達。
全てを失ったはずの私に、これほどまでの幸運がはたしてあるだろうか。きっと私は、恵まれている。
それでも感じる、この寂寥感は何なのか。
その答えを、私はもう知っている。
もっと大きな集団。超管局だとか国だとか、そういったものさえ包含する、おそらくは最も大きな集団。
――『人類』。
『今の私』は、そこに属せない。
どれだけ手を伸ばしたって届かない。この拘束ベルトがなければ霧散し、すり抜けてしまうだけのこの体では。
しかし、これは必要な一線なのだ。この手は彼らに、届いてはいけないのだ。
拘束ベルトの中と外。区別されなければならない境界線。
その向こうにいる身でありながら拘束銃を使用している私の姿は、なんとも――
「隊長!」
そんなことを考えていた私の耳に突如として飛び込んできたセンシュウの声は、どこかぼんやりとしていた私の意識を現実に引き戻すには十分すぎた。すわ一大事かと椅子から立ち上がり、拘束銃が手元にあることを確認する。
そうして部屋に飛び込んできたセンシュウに状況を報告させようと扉の方に視線を向けて――私は脱力した。
「今日はごちそうですよ! 我ら新月、特売セールに見事勝利しました!」
センシュウはそう言って、誇らしげに胸を張ってみせる。それはそれは綺麗なピースサインは、いつもの三割増だ。
先ほどまで悶々と考えていたことが、煙のように霧散する。褒めてもいいんですよと言わんばかりの彼女の笑顔に、私はあるはずのない口角が緩んだ気がした。
「隊長? ……どうかしましたか?」
立ち上がったまま反応がない私を不思議に思ったのだろう。センシュウが、怪訝な顔をして私の側まで歩いてきた。
「……いいや、何も。今日の食事は、とても楽しみだと思ってね」
一息ついて、私は椅子に座り直す。立ち上がったときに机の上に放り投げてしまった哲学書の表紙を柔らかく撫でる。そんなことをしたって、私はなにも変わらないのに。
それでも、私は手を伸ばさずにはいられない。拘束ベルトの中に押し込められたものが、私の中でうごめいていても。
私は、彼らと共に居たい。彼らと共に歩みたい。
もう一度、彼らと同じところに立ちたい。――『同じ』朝日を見たい。
「センシュウ」
「はい!」
「――いつもありがとう。お疲れ様」
そう言って、私は彼女の頭を撫でる。彼女は子供扱いされることを嫌がる傾向にあるので、てっきりすぐにそこから離れるかと考えていたのだが……何を思ったか、彼女は撫でられるままでいてくれた。
顔は、不貞腐れているような、照れているような、そんな表情をしているけれど。
「……今日のお肉、ちょっと分けてくれたら、センシュウはもっと喜ぶかもです」
「構わないとも。それなら全部あげようか」
「それは極端!」
「ははは」
私の冗談に、センシュウは今度こそ私の手の下から脱出した。
無い物ねだりにしてなるものか