名は色を失った
仄暗い部屋に、電子機器の光がひとつだけ灯っている。外との通信を絶った、小さな隠れ家。
他の棚には埃がうっすらと積もり、長く使われていないことを物語っていた。
部屋の空気は静まり返っている。風の通り道は閉ざされ、時計の音すら聞こえない。唯一、沈黙に抗うように、端末の光だけが脈動していた。
そんな部屋の中で、男は一人、青白く光るモニターを前にして座っていた。画面には、いくつかの映像ファイルが並んでいる。そのうちの一つに手を伸ばし、指先が触れる直前、彼はふと目を伏せた。
「……こんなものを見て、どうするつもりだ」
かすれた独り言が、静かな空間に吸い込まれていく。開く理由も、開かぬ理由も、とうに整理はついていた。それでも、この数秒だけは迷いたかった。それが『名を与えた者』としての、最後の矜持だったのかもしれない。
再生ボタンに、そっと指が触れる。短い電子音。画面に走る光。歪んだノイズの中から、ひとつのシルエットが現れた。
そこに映るのは、一人のエージェント。……かつての自分が与えた部隊の名は、今や追跡者たちの口にのぼる、指名手配犯の名だ。
しばらくして、こちらへと語りかける声が流れ始める。正確には、映像の中にいる自分へと向けられた声。
その記録の主が、淡々と言葉を述べていく。それは、もう失われたはずのもの。流失してしまった『現実』の一部。
記録の中で、その人物は、真っ直ぐに前を向いていた。目元は影に隠れている。それでも、確かにこちらを見ていた。
淡々とした口調で、状況報告が続く。
そこに感情の起伏はない。だが、言葉の選び方のひとつひとつが、どこか懐かしい。
その姿勢、言葉の間の置き方。確かに、自分の知る人物だった。記憶を誰かに奪われようと、記録の色が褪せようと、この断片だけはあのときのまま、ここに残っている。
ふいに、映像の輪郭が揺れたように感じて、彼は思わず自身の目元に手を当てた。
(……黒煙)
通信機越しに視界を満たした、彼の者の『現実』が、たしかに失われた証。それが再び、胸の奥で蠢いた錯覚。
流れる映像の中に、ノイズはどこにもない。ただ、自分の記憶が勝手に重ねているだけだった。
それでも指先は、勝手に巻き戻しの操作をしていた。数秒戻して、止める。
再生せず、そのまま画面を見つめた。眉一つ動かさずに、しばらくの間、それをずっと黙って見ていた。
映像は止まったまま。そして、長く操作をしていなかったモニターの光も、それに応じてすっと暗くなる。
「――オレンジブレイド」
何故、あの名を選んだのだったか。独り言を、机上に置いた掌へ落とす。
意味は、確かにあった。
あの頃、誰にも語らず、そして記録にも残さなかった。それでも、今もはっきりと思い出せる。
だが、それを口にすることはない。それを知るべき相手は、名の由来さえ、名を与えたことさえ、覚えていないのだから。
「……私がつけた名前を捨てたのなら、もう私の意見を聞く必要はあるまい」
彼らに言い放った言葉を、もう一度口にしてみる。しかし、あのときと同じような感情には至れそうもなかった。
怒りだったのか、失望だったのか。あの日、自身の胸を通り過ぎたものが何だったのか――彼は未だに、分からずにいる。
机上に投げ出されたログウィンドウの残光が、部屋の隅をかすかに照らしている。そして、その光は徐々に薄れていく。
部屋の中は、再び沈黙で満たされた。何かを言葉にする理由も、もうない。
かつて自分が名付けた部隊が、今や別の名で動いていることに、なんの感慨も無いといえば嘘になる。
ただ、あの名を選んだときの自分が、それにどのような意味を込めたのか……その輪郭だけが、今も曖昧に残っている。名は記憶よりも、長く残るものなのだと思い知る。
彼はおもむろにログウィンドウを閉じると、そのファイルに暗号化処理を施して、モニターの電源を落とした。椅子から立ち上がり、閉じきっていた窓をわずかに開ければ、そこから夜の空気が流れ込む。
空には、浮かぶはずの月の姿がなかった。
それでも、新たに刻まれた名が、見えぬ光となって夜を照らしていた。
名は色を失った