流せぬままに、
ただ沈む。

 眠る前、私はよく、自分の身体を見つめる。
 視線の先にあるのは、肉体のようでいて、どこか空虚なそれ。拘束ベルトの隙間から覗く黒煙が、わずかに揺れている。呼吸のように膨らみ、そしてどこかへと消えていく。まるで、生きている証を模倣するかのように。
 黒煙に触れようとしても、その感触はない。皮膚もなければ、骨もない。温度のない、抜け殻のような存在。それでも黒煙は、私という形を象り、この世界に留まっている。そうして私は、確かにここに居る。かろうじて、人の形を保つ存在として。
 喋り、歩き、物を食べる。各々が武器を構えて、仲間達と共に戦い、私は隊長として指示を出す。
 その精度には、まだ改善の余地があるのだと思う。それでも、以前よりもずっと上手く連携が取れていると感じていた。
 彼らの戦い方、戦闘中における思考や癖。任務と報告書を通して、時には奇妙で笑ってしまうような超実体の収管や、勘違いからくる何ともいえない雰囲気を通して、私は仲間達を、仲間達は『今の私』を、理解しつつある。
(皆も、よく笑うようになってきた)
 今日の任務は、結論から言ってしまえば我々の勘違いだった。そこに超実体の関与は確認されず、超常現象と思われた事象は、少しばかりヘンテコな、けれど確かに南廷に住む人々を愛する人が起こした、ひとつの舞台だった。
 それに気付いた時の、仲間達の笑い声。南廷支部の職員達の、呆れているような、安堵しているような、静かな笑い声。
 時として、人々の思い込みは超常現象にも似た現実を作り出す。それは実害を伴うこともあるが、今回の任務は、きわめて平穏に終了した。少し時間が経てばただの笑い話になり、そしていつかは忘れ去られるような、そんな時間。
 皆の笑い声に釣られるように、その時の私もつい、笑ってしまった。ずっとこうであればいいのにと願うほどに、平和な一日だった。

 だが、私達の前にある現実は、決してそれを許さない。

 だから私は今日も、自分の身体を見つめる。黒煙となり揺らめく自分を、理解するために。
(……第一に、私も、笑うことはできる)
 夜という時間は、一人で何かを考えるには最適な時間でもあると同時に、不適当な時間でもある。誰にも止められずにいくらでも考えることができる代わりに、どこまでもその思考は沈んでいくからだ。それも、暗い方向に。
 だから私は、その日に考える議題はひとつに絞ると決めていた。芋づる式に連想される議題が新たに生まれても、それは明日以降の私が考える。メモにだけ残し、今日考えると決めたことだけに集中する。現実流失という現象を押し止める方法を基準原器や拘束ベルトといった外部要因に頼っている以上、私は可能なかぎり、それを早めてしまうような行為――たとえば怪我を負ったり、精神的な傷害を溜め込む等の行為――は避けなければならない。
 だからといって、何もしないわけにもいかない。シンリョウやフライスの検査や分析に頼りきりになるつもりは毛頭ない。私には、私にしかできないことをするべきだ。
 そうして自然と辿り着いたのが、参加者一名の『会議』だった。ただの、自問自答ともいう。
 今後、数値に表れない異常がこの身に起きないとも限らない。そのとき、『私自身が』私のことを理解していなければ、その異常を彼らに伝えることもできないだろう。
 今の私は、何が出来るのか、何が出来ないのか。それは本当に出来ないのか、それとも、してはならないことなのか。
 自分の中にある数少ない記憶と、仲間達との対話の中で、ひとつの議題を決める。毎日行なっているわけでもない。そんな頻繁に議題が見つかってもらっても困る。……最初の方こそ、ほぼ毎日行なっていたのは事実だが。

 今日は、約二週間ぶりの『会議』だった。議題は――『感情の発露について』。

(私の中にも、感情はある。……何かを感じる心がある。それは、これまでの生活で、既に理解している)
 今夜、考えたいのはその先の話だった。――私という存在は、感情を表に出すことができるのか?
 この黒煙は、それを許してくれるのか。
(笑うことはできる。顔がなくとも、声があるから。そして手もあるから、何かを楽しいと思えば、素晴らしいと思えば、それに対して拍手を送ることもできる。これらの感情を表に出し、相手に誤解なく伝えることは可能)
 南廷に響いた、皆の笑い声を思い出す。そのときの私も確かに笑い、その舞台に拍手を送った。嬉しそうなその人を見て胸が温かくなり、握手までしてしまった。
 人の感情は、喜怒哀楽の四つに分類されることが多い。細かい感情を追うとキリがないので、今回はこれに当てはめて考えてみることにした。
(喜怒哀楽のうち、二つは問題ない。……次は、怒り)
 私も、怒りを覚えることはある。私が怒る前に仲間達が声を上げることが多いのであまり大きく表に出す機会はないが、自分のなかで、普段よりも心にさざ波が立っていることに気付くとき、私は確かに怒りを感じている。
 ならばそれを、これまでの私はどう表現してきたか。
(まずは、声か)
 皆が言うには、怒っているときの私は少し、声が低くなっているらしい。あまり自覚はないが、怒りを覚えた人間に起こる変化としては、よく挙げられる現象だ。怒りという感情を表に出せていると考えていいだろう。
「……少し行動が荒っぽくなると言われたこともあったか……」
 小さく呟いたはずの声は、夜の静けさの中で、想像以上に響いてしまった。慌てて自分の口元と思しき箇所に手をやり、そっと周囲を見渡す。……誰かが来る気配は無い。
(……喜怒哀楽とは少しずれるが、驚いた場合においても同様に、誤解なく相手に伝えられるな)
 ――軌道修正。
 喜怒哀楽のうち、三つの感情の存在と、その発現に問題がないことは確認がとれた。ならば、最後に残る感情は……悲しみ、だ。
(…………私は、泣けるのか?)
 その問いは静かに、しかし確かな形をもって、胸の奥で揺れた。――涙。悲しむ心を発露する、最も分かりやすい現象。
 記憶を失ってから今日に至るまで、私に泣いた記憶はない。だが、その感情を失ったわけではない。

 私の判断ミスで怪我を負わせてしまった、仲間達の姿を見たとき。
 助けられなかった一般市民の、最期の慟哭を聞いたとき。
 自分の身体を構成する黒煙の揺らめきのなかに、底なしの闇へ落ちたかのような感覚を覚え、震えたとき。

 無力さに胸が軋み、感情の重みに押し潰されそうになることは何度もあった。それでも私が、涙を流すことはなかった。
 何かを悲しむ心はある。不確かな痛みとして、胸を締めつけるような感覚として、確かにそれはそこにある。
 ならば、その感情は、どこへ向かったのだろう。私が、涙を流すほどに強い感情に囚われたときに――それらは、どう発現するのだろう。
 黒煙が強く揺れるだけなのか。それとも、何も変わらないのか。あるいは、私が『泣いた』と思った瞬間に、それはもう、『泣いたこと』になるのだろうか。
 『泣く』という行為だけが、どこか遠いところにあるように感じた。……苦しくて、悲しくて、どうしようもなくなったとき、私はその感情をどうすればいい?
 私はそれらを、どこへ流せばいい?
 それらを――どう終わらせればいい?

 泣ける者達は、その感情を涙に変えて、外に出すことができる。声を詰まらせて、肩を震わせて、顔を覆って、何かを溢れさせることができる。
 だが私には、それができない。記憶にないだけじゃない。構造として、既に欠けてしまっている私には――
(ああ、そうか。……そういう、仕組みなのか)
 辿り着いたその答えは、案外すんなりと、胸の中へと落ちてきた。――私にはもう、そんな手段は残されていないのか。
 自分の内にあったはずの悲しみが、どこにも行き場を見つけられないまま、身体の奥で、音もなく漂っている。流失し続ける黒煙は、涙を流すことだけは許してくれなかったのだ。
 それを、受け止めろとでもいうように。
 それが、『以前の私』と『今の私』とを隔てる、絶対的な境界線なのだと、示すように。

「……はは」

 乾いた笑いが口から漏れる。――口など、無いのに。
 声を発するための喉だって、呼吸をするための肺だって無いのに。私は笑う、笑うことができる。
(何が違う……)
 口が無いのも、目が無いのも、同じことじゃないか。何が違う、何が『以前の私』と『今の私』を区別する?
(……何故……)
 ――歩み寄ることができたと、思っていた。
 多くの人々に支えられ、言葉を交わし、触れ合って、同じ時間を共有してきた中で、私は、皆に近付けたと思っていた。……とんだ勘違いだ。馬鹿げた空想だ。
 拘束ベルトの中と外、区別されなければならない境界線。『人類』と『超実体』との間にある、歴然とした差異。
 それ故に、彼らに届いてはいけないのだと考えていたこの手を、それでも彼らは掴んでくれた。そうすることが当たり前だとでもいうように、この手を引いてくれた。だから私にとって、それに応えることは喜びですらあった。
 そうして彼らと共に歩んでいく中で、私はすっかり忘れていたのだ。――その隔絶は今もなお、私と彼らの間に、大きく線を引いていることを。
 そして『今の私』はそれを、踏み越えてはならないのだということを。
 胸の辺りが締め付けられるような感覚に、私は思わずそこに手を当てた。
(…………こんなに、痛いのに)
 たとえば、鼻の奥がつんとなるような感覚。たとえば、目に映るもの全てがぼやけていくような視界。
 『今の私』は、それを知らない。それを知る術もきっと、私には無いのだ。
 呻いてみても、かぶりを振ってみても、痛む胸を、思いきり握りしめてみても――私はついぞ泣けないまま、白みゆく空をただ、見つめることしかできなかった。


流せぬままに、ただ沈む。