海のみぞ知る約束

 海に行きたい、と。

 殺戮兵器らしからぬことをルッチが言ったので、スパンダムはルッチを連れて自身のプライベートビーチを訪れていた。
 寄せては返す波の音。一面に広がる青い海。ゴミひとつない白い砂浜、水平線には大きな白雲。絶好の海日和。
 しかし海の風はベタベタとしていけない。いつものようにスーツを着ていたらせっかくのオーダーメイドが台無しになることは分かっていたので、スパンダムは早々に水着に着替えていた。ちょうど海に行く予定が仕事で潰れてしまったので、せっかく来たのなら入りたかった。
 パラソルの下、スパンダムはルッチに声をかける。

「どうだ、ルッチ。気持ちいいか?」

 スパンダムよりも一足先に海へと入っていたルッチは、その声にくるりと振り向いた。その表情は、おおよそ海を楽しんでいる人間のそれではない。

「特に。冷たいだけですね」
「おいコラ、お前が言うからわざわざ連れてきてやったんだぞ? 嘘でも喜べよ」
「冷たくて気持ちいいです」
「よろしい」

 本当にそう思っていないことなどスパンダムとて分かっていたが、別にルッチに喜んでもらいたくてこの場所に連れてきたわけではない。珍しいことを言ってきたものだから、どんな反応をするのかを見たかっただけだ。ただの好奇心である。

「楽しんどけよ。お前にとっちゃこれが最後の海なんだから」

 スパンダムの言葉に、ルッチは少しだけ悩む素振りを見せた。そして何を思ってか、突然背後から海に倒れ込む。一瞬沈んで、仰向けのまま波に身を任せて彼はぷかぷかと浮き始めた。

「それがお前の楽しみ方かよ」
「本の挿絵ではこうやって楽しんでました。浮き輪がないので再現できませんが」
「いや、再現ってお前……」

 楽しみ方すら本の真似事か。つくづくこの少年とは感性が合わないと思う。スパンダムは海に来ても変わらぬ少年の有り様に半ば呆れていたが、そんなスパンダムのことなど意にも介さずルッチが言う。

「スパンダムさんも」
「あ?」
「どうですか、海」

 そう言って、ルッチがスパンダムに手を差し出した。そしてこっちに来いと手招いている。そりゃあ、スパンダムも海に入るつもりでここに来た。水着を着ているんだからそりゃそうだ。だが、一回りも若い子供に手招きされて入るというのも、なんだか癪に触るというものだ。

「自分で入る」
「そう仰らずに、お手を」

 体を起こしてもう一度差し出されたルッチの手を無視して、スパンダムは少し離れたところから海へと足をつける。冷てェなァ、と思いながら少しずつ体を海に沈めていく。

「スパンダムさん、少し止まって――」
「やだね、おれは一人で入るったら入るッ――だあァァ!?」
「スパンダムさん!」

 勢いよく踏み出した足は大地を踏みしめることなく沈み込む。どうやらそこから深くなっていたようで、スパンダムは物の見事にそこに足を踏み入れてしまったわけだ。お湯が入っていると思って持ち上げた空のやかんがとんでもない跳ね上がり方をするように、そこに地面があると思って降ろした足は思い切り沈んだ。当然、体も同様に沈んだ。
 咄嗟のことで身動きもできず、驚いたことで大きく開けてしまった口から酸素が逃げていく。反射的に吸い込んだ水が肺を濡らし、その呼吸を狭めていった。現状を理解したスパンダムが、救いを求めてばしゃばしゃと暴れる。かろうじて水面から出ていたその手はすぐに掴まれて引き上げられた。

「がはッ……!」
「落ち着いてください、スパンダムさん。もう息ができるはずです」
「ゲホッ……ッあー! 死ぬ!」
「それだけ話せたら大丈夫です、死にません」

 ルッチに背中をさすられながら、スパンダムはげほげほと咳き込む。呼吸する度にひゅうひゅうと喉が鳴るが、次第にそれも落ち着きをみせた。荒い息を整えながらスパンダムは海に悪態をつく。

「クソッ、なんでこんな浅瀬で溺れなきゃならねェんだ!」
「だから止まってくださいと言ったじゃありませんか」

 スパンダムが水着を着てここを訪れた時点で、彼が海に入ろうとしていることは分かっていた。だからルッチは最初に海へと入り、深いところ浅いところ、潮の流れなどを調査したうえで彼はぷかりと海に浮かんでいたのだ。

「お手を。安全なところで泳ぎましょう」
「うーッ……」

 悔しげな顔で、悔しげな声をあげながらもスパンダムは大人しくルッチの手を取った。溺れかけたことは気に食わないが、落ち着いてしまえば久しぶりの海はやはり気持ちよかったのだ。
 そうして二人はしばらくの間、海の波間を漂っていた。波に攫われそうになったスパンダムをルッチが引き戻したり、水面下にある岩場に小指をぶつけて悶えているスパンダムをルッチが助けたりしながら、二人はそれなりに海を満喫していた。

「どんな悪魔の実なんだろうな」

 沖に流されないようにとルッチに手を繋がれたスパンダムが言う。最初こそ抵抗したが、抵抗しながら沖に流されてしまったのでさすがのスパンダムも諦めた。
 スパンダムの問いかけに、隣で同じように浮かんでいたルッチが片眉を上げる。

「? スパンダムさんにもお話があったと思いますが」
「知ってるさ、ネコネコの実だろ? 名前に似合わず凶暴なモデルらしいじゃねェか。お前がどんな姿になるのかと思ってなァ」

 入り納めなのだとルッチは言った。明日、悪魔の実を食べるからもう海に入れないのだと。だから最後に海で泳ぎたい、と。
 おそらくは能力者の上司に勧められでもして、それを断るのも面倒だから『じゃあ行きます』と答えたに違いない。だが、この少年が海に入りたいなどと子供じみたことを言う場面に遭遇することなど滅多にないのだ、楽しまねば損である。
 そこまで考えたところで、スパンダムはふと気付いた。

「あー。……そうか、お前が悪魔の実を食うってことは今後、おれが海で溺れたときは別の奴に頼むことになるわけだ」
「……スパンダムさん」

 咎めるような声が少年の口から発せられた。心なしか普段よりも眉間の皺が深いように見える。

「実際そうなるじゃねェか、お前はもう海に入れないんだから。おれがCP9の長官になっても、海に行くときはお前以外の護衛が必要ってこったな」
「その必要はありません」
「ほう? そりゃまたなんで」

 随分はっきりと言い切ったな、と首を傾げながら問いかけたスパンダムに、ルッチは告げる。

「あなたが海に落ちる前におれが助けます。……あなたが傍に置いてさえくれるなら、の話ですが」
「……ふーん」

 ルッチの言葉に、スパンダムは悪い気はしなかった。CP9史上最も強いと評されるこの少年が言うのなら、まず間違いなくスパンダムは助け出されるのだろう、海に落ちる前に。これほどの安心はほかにない。

「じゃあそのままCP9に居られるよう頑張るこった」
「……もちろん」

 スパンダムはいずれCP9の長官になるつもりだ。父であるスパンダインがそのつもりで色々と画策していることも知っている。そして父がそう動いているのなら、スパンダムがCP9の長官になる未来は確定している。そうスパンダムは思っていた。だからルッチが傍に置けというのなら、彼がCP9で在り続けるしかないのだ。

「お待ちしております」
「おう。……んじゃ、そろそろ上がるか。まだ仕事もあることだしな」
「分かりました。――では、スパンダムさん」
「分かってるよ! 手だろ!」

 みなまで言わせず、スパンダムはルッチの手を取る。そして手を引かれて海から上がり、二人は並んでシャワー室を目指した。手は、なんとなくそのままだった。離すタイミングを逃したともいう。

「スパンダムさん」
「ん?」
「お待ちしておりますから」
「……ん、おう」

 ぎゅっとスパンダムの手を強く握り締めてくるルッチの頭を、スパンダムは乱暴に撫で回した。『あなたを待っている』と、こうもまっすぐに言われてしまうとどうしたって照れくさい気持ちが先行してしまう。
 スパンダムはルッチの方を見ずに、その頭をぐりぐりと撫で続けた。

「早く来てくださいね」
「急かすな、あと数年くらい大人しく待ってろ」
「強くなって待ってますからね」
「分かった分かった」

 はいはいと、スパンダムは繋いでいる手をぶんぶんと振った。頭を撫で回したり腕を振り回してやったり、子供扱いここに極まれりといったところか。でも仕方ないだろう、スパンダムからしてみればルッチは子供もいいところなのだから。
 それでもルッチは嫌な顔はしなかった。ただ黙って振られる手をされるがままにしている。

「絶対ですよ」
「分かったって……」

 それどころかルッチの方から腕を振りはじめた。そのくせ表情はまったく変わらないのだから、つくづく分かりづらい子供だと思う。

「約束ですよ」
「あァ、あァ、約束だ」
「嘘ついたら、この腕切り落としますから」
「怖ェこと言うなァ!?」

 指どころか腕まで持っていこうとする、おおよそ子供らしくない思考。やろうと思えばできる少年であるから、少しは怯えるべきなのかもしれない。
 けれどスパンダムは少しも怖くなかった。――その約束を、スパンダムが違えることなど有り得ないのだから。


海のみぞ知る約束