都合のいい男
ロブ・ルッチにとって、スパンダムという人間は『都合のいい男』であった。
全ての事象を自身が有利になるように書き換える男。作戦の成功は自身の手柄であり、その失敗は部下のせい。都合の悪い現実はその権力でもって無かったことにし、自身にとって有益な現実は誇張する。ロブ・ルッチにとってスパンダムとはそんな人間であり、おおよそ好意的な感情を抱けるような相手ではなかった。
例外として、殺しの命令を躊躇いなく下してくれるところは好ましいと思っている。そういう意味でも、ロブ・ルッチにとってスパンダムという男は『都合のいい男』であった。
そしてスパンダムにとってのロブ・ルッチもまた、『都合のいい男』だっただろう。
政府の命令には絶対に逆らわない、きわめて優秀な駒。権力というパワーは有していても武力というパワーは持ち得なかったスパンダムにとって、ロブ・ルッチという男は自身では決して得られない、しかし喉から手が出るほど欲しかったカードなのだ。それが政府の命令であれば逆らわない、きわめて扱いやすい武器ともなれば、これほど都合のいい存在もそうはいないだろう。
互いに利用し合い、見下し合う。スパンダムはルッチを便利な駒として扱い、そんなスパンダムにルッチは内心舌を打ちつつも、殺しの命令に口角を上げる。そんな関係が、政府の命令でもない限り変わることはないと、お互いにそう思っていた。
それが、CP0になって逆転した。
ルッチが上司に、スパンダムが部下に。有り得るはずのない下剋上は、他ならぬ政府の命令により現実のものとなってしまった。
そうなってからも、ルッチにとってスパンダムという人間は都合のいい男であった。従来の意味ではなく、『使い勝手のいい男』という意味である。
そしてきっと、スパンダムにとってロブ・ルッチという存在は都合の悪いものとなっただろう。理由は言うまでもない。――この逆転劇で、以前までの関係性は完全に崩壊した。
この関係が、ずっと続くとは思っていなかった。世界の移り変わりは激しく、何が起こるかも分からない情勢だ。世界政府の命令ひとつで、ありとあらゆるものはいとも容易く様変わりすると改めて理解した。
また二人の関係が、政府の命令がなくとも簡単に瓦解するものであることもルッチは分かっていた。たとえば、そう――ルッチが死にかけたときなどは、呆気なくこの関係性は終わるだろう。スパンダムは何をする必要もない、ただ見殺しにすればいいだけである。
そして、その時はきた。
ただ、それだけのことだった。
白い服が真っ赤に染まる。いつもならその赤は敵の返り血であり、ルッチはすました顔でそこに立ち、その様子を見て怯えるスパンダムを鼻で笑っていただろう。
しかし、現実は違う。ルッチは仰向けに横になり、どす黒い赤の中心を手で押さえ、荒く呼吸をしていた。うまく止血すればなんとかなるだろうが、下手なことをすれば取り返しのつかないことになる、そんな状態。
敵は全て殺した。この場で生きているのはルッチとスパンダムだけである。しかし敵の増援がないとはいえない、ここはまだ戦場なのだ。
ルッチの耳に、ハットリがばさりと飛び立つ音が届く。向かう方角からして、おそらく仲間を呼びに行ったのだろう。……ルッチのすぐ近くにいる、下っ端が役に立たないことを悟ったのだ。
痛みに耐えるために閉じていた瞳をこじ開けて、ルッチは視線をさ迷わせる。探していた紫色を見つけて、意図せず安堵の息を漏らした。それに目ざとく――耳ざとく気付いたらしいスパンダムの顔が大きく歪む。
「なに、勝手に、死にそうになってんだよ……」
震える声で呟く男は、しかしルッチが何も答えない――答えられない――ことに気付き、その震えを増大させていく。
そして、ついにその感情を爆発させた。
「お前は強いんだろ、おれを守るんだろ……ッ、なに勝手にッ、死にそうになってんだッ!!」
そう叫んで、スパンダムはボロボロと泣きだした。それはもう大粒の涙を洪水のようにその瞳から流していた。落ちてきた涙が、中の骨が見えるほどに抉れている傷口を濡らし、さすがのルッチも少し呻いてしまう。
その様子を見て、スパンダムがさらに喚いた。何を痛がっているんだとルッチの胸倉を掴みあげ、重さに耐えきれずすぐに地面に落とした。もはや恐慌状態といっていいその様に、ルッチは嘆息する。――おれだって人間だ、死にかけることくらいあるに決まってるだろ。
当然といってはなんだが、なにもスパンダムは、ルッチが死にそうになっていることに心を痛めているわけではないのだ。スパンダムは自分のためにしか泣けない男なのだとルッチは知っている。他人のための涙など、母の腹の中にいたときにさえなかったのかもしれない。
では何故彼が泣いているのかといえば、それこそ彼は恐慌状態なのだ。ロブ・ルッチほどの男が死にかけているこの現状への恐怖と、その場に一人取り残されるかもしれない恐怖に怯えているだけだ。ルッチの身を案ずるつもりなど欠片もない。ただ己の命が脅かされている現実に喚いているだけだ。それに伴い、言動もCP9時代のそれに戻っているようだがスパンダムがそれに気付いている様子はない。
色々と言いたいことはあった。
お前はもうおれの上司じゃないだろうが、とか。
そんな口をきいて次どうなるか分かってんだろうな、とか。
喚いてる暇があったら仲間のひとりでも呼んでこいバカヤロウ、とか。
言いたいことは山ほどあった。山ほどあったけれども。
「……つ、ごうの……いい、やつ……」
CP0になってから、勝手におれに怯えて勝手におれから離れようとしたのはお前だろう。おれの死を、心の底から願ったのはお前だろうに。おれを政府から追放したときも、おれがCP0に昇進したときも。お前はいつだって、おれの死を願っていただろうに。
いざそれを目の前にしたらお前は泣くのか、喚くのか。死ぬなと命ずるのか。
嗚呼、なんて都合のいい男。
血を流しすぎたのかもしれない。薄れゆく意識に、引く血の気に、ルッチの瞳が閉ざされていく。
その様子を見たスパンダムがさらにわんわんと泣きだした。その声のあまりの煩わしさに、ルッチは一度閉じた瞳をゆっくりと開けて、その体を起こした。――うるせェ、少しは休ませろ。
都合のいい男