違う、
そうじゃない。

 最初は、それはもう怯えたとも。だってそうだろう、一度は全ての罪を着せて政府から追放し、あげく抹殺命令すら出したのだ。殺されたって文句は言えない。それくらい分かる。おれなら殺す、絶対に殺す。殺すように部下に命令する。
 しかし、予想に反してルッチはおれを殺さなかった。そこに居るのが不快だと全身で表すくせして、どこにでも連れていくし作戦にも参加させる。
 不快だというのなら、殺せばいいのに。いや、別に殺されたいわけではないけれども、この男にはそれだけの力がある。諜報員だったのだから、暗殺などお手の物だろう。これまで長官として、ありとあらゆる暗殺を命じてきたから分かる。あの男の手にかかれば、事故に見せかけた、自殺に見せかけた殺害の偽造など造作もない。おれがそれを命じ、奴はそれを実行してきたのだから。
 だからルッチがCP0になってから、おれは食事のひとつ、睡眠のひとつも満足にとれなかった。本来なら生を実感するはずのそれらが、すべて死に繋がるものにしか思えなかった。食事に毒は? 睡眠中に襲われはしないか? 生まれつきの隈がさらに濃くなった。
 しかし、おれは今も生きている。食事中に血反吐を吐くことも、睡眠中に血まみれになることもなくここまできている。嬉しい限りだが、それはそれとして今度は、なんの行動も起こされないことが恐ろしい。難儀な性格だと自分でも思う。結局、ルッチが何をしようと何をしまいとおれにとっては恐ろしいものでしかないのだ。奴からしたら迷惑な話だろう。お前が強すぎるのが悪いんだからな。あと考えが読みとれないポーカーフェイスもどうにかしてくれ、耳と尻尾を生やしてくれ。
 ルッチが何を考えているのか分からない。分からないから怖いのだ、だからおれは考えた。めいっぱい考えた。

 そして気付いた。――そうか、命令がないからだ、と。

 ロブ・ルッチは分かっている。自身の殺しが許されているのは、世界政府の命令があるからだと。政府の命令なき殺害は、たとえロブ・ルッチであろうとも裁かれるべき罪なのだ。たとえアイツが、どれほどおれを嫌おうと憎もうと、世界政府がおれの生存を認めるならばそれは、アイツが手を下すべき“悪”ではないということなのだ。もしただの私情でおれを殺してしまえば、それは私利私欲で市民を殺す海賊と何が違う?
 あくまでもルッチの殺しが認められているのは世界政府の命令があるからだ、アイツ自身に特権があるわけじゃない。――そうだ、おれはアイツに怯える必要などないのだ。あれは自分勝手に生きているようでいて、驚くほど自分を律している男だ。少なくとも、おれが見てきたロブ・ルッチという男はそういう人間だった。世界政府がおれを消そうとしないかぎり、殺害命令が下らないかぎり、おれの命が脅かされることはない……!
 あァ、なんでこんな簡単なことに気付けなかったのか! おれが取り入るべき相手はロブ・ルッチではなく、世界政府! あの男である必要などなかったというのに、まったく無駄な時間を使っちまったもんだ!
 それにアイツがCP0になったのだって、世界政府の辞令が下ったからだ。それをどうにかしたいなら、なおさら世界政府に向き合うべきなのだ。もちろん、これまでも世界政府へ取り入るための策は講じてきたが、これからはよりこちらに比重を置くべきだろう。
 ふっと、張りつめていた糸が切れた。命を脅かすものがひとつ減ったのだ、祝い酒のひとつやふたつ、開けても責められやしないだろう。その日の晩はゆっくりと眠れたし、久しぶりの二日酔いだった。
 奴に怯える日々は変わらない。しかしそれは、檻の中にいる猛獣が唸り声を上げながらこちらを睨めつけている状況に遭遇して『檻が破られるかもしれない』と怯えているだけだ。実際に檻が破られるかどうかは、ひとえにおれの行動にかかっている。おれの命の主導権は、まだおれにある。そう言えるだけの権力が、まだおれには残っている。

 そうと分かれば話は早い。おれは世界政府への擦り寄りを本格的に開始した。今のおれがこの立場にいることができるのは、おれが世界政府に気に入られているというよりも、親父の威光により守られているといった側面が強い。その親父が病に伏し、まだ回復する様子をみせない現状では、やはり最悪の事態は考えておくべきだ。“親父”ではなく“おれ”が世界政府に必要とされなければならないのだ。
 なにより、政府の動向は注視しなければならない。いつロブ・ルッチに、“スパンダム殺害命令”が下るか分からない現状は変わらないのだ。そんな情報は早く握るにかぎるし、実行されないようかけ合わなければならない。一石二鳥というわけだ。
 そして同時に、ルッチへの媚び売りも継続した。急に態度を変えれば不審に思われるに決まっているからだ。
 特に苦ではなかった。これまで通りに過ごせばいいだけだし、結局のところ、おれがアイツを恐ろしいと思っていること自体は変わらないからだ。いや普通に怖いだろ、一瞬でおれを殺せる奴が睨みつけてくる現状はどう足掻いても怖いだろ! 自然と体は震えるし死にたくないがための媚びへつらいだってするさ、本能とはそういうものだ。
 それでも少しばかりの余裕はできた。世界政府から切り捨てられないかぎり、そしておれが任務中に命に関わるようなヘマをしないかぎり、おれが殺されることはない。
 ――そう、思っていたのに。

「ッ、いッ、て、ェ……」

 ドクドクと流れ出る血を何とか止めようと、無理くり傷口を押さえた。自分の身を守る手段として止血法を学んでいてよかった。吐きそうになりながら、流れ出る血をなんとかしようとする。
 ヘマをしたのだ。任務中に。
 それも戦闘中に起きてしまった。当然、それを敵が見逃してくれるわけもなく。腹部に一瞬の衝撃、理解する間もなく激痛が走った。撃たれたのだ。くずおれるおれの体は、迫りくる敵を前にして動きそうにもなかった。うつ伏せに地面へと倒れ込んで、それでも目なんて閉じれなかった。弾切れだったのだろう、銃の代わりに振りかぶられる剣を、どうすることもできずに見ていた。

 そして、敵はぶっ飛んでいった。

 綺麗に近くの家屋の壁までぶっ飛ばされていた。ピクリとも動かないから、アイツ多分死んだと思う。……どんな力で蹴ったんだよ、お前。

「あ……ダ、ダンナ……ご無事で……?」

 返り血ひとつ浴びていないまっさらな白がそこに、少し離れたところに立っていた。コイツが任務を放棄するわけがないから、多分もう向こうの任務は終わったんだろう。ミッションコンプリート、めでたい話だ。おれは死にかけてるが。
 こういうときでも習慣というものは自然とおれの口を動かしてくれるもので、咄嗟に口から出たのは奴への擦り寄りだった。
 ルッチが無事なことなんて見りゃ分かる。むしろおれの方が無事じゃない。案の定ルッチもそう思ったようで、奴はフンと鼻を鳴らした。

「お前は無事じゃないようだな。CP0の自覚がないのか?」
「……は、はは……すみませ――ッ」

 愛想笑いを浮かべて謝ろうとしたが、最後まで言い切ることはできなかった。迫り上がる熱い液体を耐えきれずに口から吐き出してしまう。当然それは赤くて、つまりは血なわけで。すげェな、人ってこんなに血を吐けるのかと、馬鹿みたいなことを思った。分かりやすい現実逃避だ。
 腹からも口からも血が止まらない。うつ伏せの体勢が辛くてなんとか体を横に向けて、血をなんとか止めようと傷口を押さえては呻き、押さえては呻きを繰り返した。――死にたくない。
 死んでたまるかと、おれはルッチに助けを求めようとした。そして気付いた。……あァ、これはまずい。
 おれたちの周りには誰もいない。物言わぬ死体が転がるばかりだ。おれがここで見殺しにされても、死人に口なし、誰も証言などしてはくれないのだ。
 あァ、まずい、まずい。殺される。コイツが手を下すか下さないかの違いだ。ここでおれを殺して『殉職』として処理しても、このまま見殺しにしても、結局おれが死ぬことに変わりはない。

「あ……あ、あァ、あ……!」

 言葉が紡げない。そんな余裕は精神的にも肉体的にもなかった。ルッチが近寄ってくる。――白い死神がやってくる。
 やめろ来るな、殺さないでくれ。もしかしたら助けてくれるかもしれないだろ。コイツにそんな心があるものか、あったっておれに向けられるはずがねェ。でもこのままじゃ。
 相反する思考が脳裏を駆け巡る。その間にもルッチの歩みは止まらない。ただでさえ引いている血の気がさらに引いた。――なァ、ルッチ、おれ結構役に立ってたんじゃねェかなァ。
 ほら、雑用だってなんだってやってきただろ? それでお前、任務に集中できたりしただろ? おれじゃなくてもいいって、なァ、そんなこと言わないよな? なァ!
 足音が止まった。視界の先、憎らしいほど白い靴が目の前にあった。頭上から降り注ぐ視線が恐ろしい。こうなってしまっては、世界政府への取り入りなんて関係ない。“世界政府”ではなく、“ロブ・ルッチ”がおれをどうするか。それだけの話だ。あァ、だから気を付けていたのに。任務中に死にかけることだけはなんとか避けてきたのに!
 傷口を押さえる手が震える。歯の根が合わない。顔があげられない。
 ルッチが動いた。今のおれでも目で追えるくらい、ゆっくりと。なんだよ、何する気だよ、頼むから、頼むから殺さな――

「フン、止血するのは上手いじゃねェか」
「……ッ、は?」
「生き延びることにかけては優秀だな」

 横たわるおれの体の下に差し込まれた両腕。突然の浮遊感。歩き始めたルッチの動きに合わせて上下に動くおれの体。

「……なん、で」

 横抱きにされている。ルッチの肩の上で、ハットリがおれを見下ろしていた。見たことのある目だ。……そうだ、ルッチが昔、大怪我を負ったときに見た。心配している目だと思う。多分。おれはルッチと違って鳩の気持ちなんて読みとれない。

「ここで死にてェなら下ろしてやるが?」
「――ッ、ちがッ、あァ、ッぐ、ゥ……!」
「だろうな」

 咄嗟に体を起こそうとして激痛が走り、再びルッチの腕の中に横たわる。190センチ以上ある男が暴れても、ルッチは微動だにしなかった。

「おい、ちゃんと傷口を押さえろ。おれは両手が塞がってるんだ」
「は、……はい……」

 なんとか返事をして、おれは止血に集中する。……どうやら、おれは殺されないらしい。何故なのかは分からないが、とにかく助けてもらえるらしい。

「意識は飛ばすなよ、一気に持っていかれるぞ」
「……なに、に」
「死神」
「……そんな、怖ェこ、と……」

 言わんでください、と言いきることはできなかった。きっと緊張の糸が切れちまったんだと思う。元々、血を流しすぎている感じはしたのだ。死にたくない一心でこれまで意識を保っていたが、いや今も死にたくないし死にかけていることに変わりはないんだが、でも、なァ、今のコイツが死神じゃないと分かっただけそりゃ安心するだろって話でよ。
 だってコイツが怪我したおれを運ぶときってのは、それはもう安全と同義だったわけで。昔からそうだったわけで。

「おい、しっかりしろ。ぶっ飛んだらそこらの瓦礫に捨てていくぞ」
「……あー……」

 それは困る。困るが、いや、さすがにもう、おれはただの文官で、鍛えてなんかないわけで、血なんてこんなに流すことはないわけで、だから――

「おい、起きろ」

 ――無茶言うな、と、言えたような言えなかったような。おれの意識はそこで途切れた。




 夢を見た気がする。
 薄暗い部屋の中、ルッチがおれを見下ろしている夢。ハットリがいないのも珍しいなと、そんなことを思った気がする。




 目が覚めたら病室にいた。
 目を開けることができたということは、つまりおれは瓦礫に捨てられることはなかったということだ。体中が痛い、ちゃんとおれは生きているらしい。

「お前のご主人様は何考えてんだろうなァ、ハットリ」

 退院前日になっても、ルッチがおれの病室を訪れることはなかった。そのかわりと言わんばかりに、ハットリが毎日おれのところにやってきた。綺麗な花やら木の実やら、おそらくは鳩なりの見舞い品であろうそれらをくちばしに咥えて。
 顎の辺りを人差し指の甲で撫でてやれば、ハットリは気持ちよさげにくるくると鳴く。可愛いヤツめ。

「訳分かんねェ……」

 ハットリを撫でながら考える。……おれを消すなら絶好の機会だったはずだ。
 気まぐれか? アイツがそんなことを理由に動いたところをおれは見たことがない。今じゃなくても殺せるから? じゃあなんで今じゃなかったんだ、今でも良かっただろうに。
 おそらく、私情を挟んだ行動ではないのだろう。となれば、理由はひとつとみていい。

「“命令がない”……ってのが、ここまでアイツを縛るのか」

 “見殺し”だって、直接手を下さないだけで“対象の死亡”を許容するという点では変わらない。間接的な殺人だ。特に、それが救える命であった場合は。
 そしてアイツは強く、賢いから救える命も多いのだ。現にあの大怪我を負ったおれは一命をとりとめた。……あの時のアイツにとって、おれは“救える命”だった。
 おれに対する“殺害命令”は下りていない。殺すなとも言われていないが、殺せとも言われていない、ひとつの命。救える命。政府の命令なき殺人は“罪”。

「真面目かよ。……真面目だったな」

 誰も見ていなかったはずだ。到着したときには既に死んでいたと、そう言えば誰も否定できなかったはずだ。おれが弱いのなんてみんな知ってる。
 なによりお前、おれがしてきたことを散々見てきただろ。CP9のときから、ずっと。おれの掲げる大義名分の裏に、アイツが気付いていなかったわけがない。そりゃあ、以前言ってたようにおれの思想に賛同する必要なんかないわけだが、なんというか、お前……

「なァ、ハットリ。……お前のご主人、難儀な性格してるよなァ」

 ハットリは、くる? と鳴いて首を傾げた。そして器用に困った顔をしてみせて、躊躇いがちに頷いた――ように、おれには見えた。


違う、そうじゃない。