人間なのだ、
誰も彼も。
――彼と初めて会ったときのことを、スパンダムはよく覚えている。
殺される、と思った。新しい部下の一人、いずれCP9長官となる自身を守ってくれる武器の一人であるというのに、殺される、と本気でそう思った。
ただそこに在るだけで人を萎縮させる、死を覚悟させるその重苦しい気配に息が詰まった。意識して呼吸をしなければ立っていることもままならない。それでも、その青年の瞳から目が離せなかった。――おれの元で働くならその殺気、消せるようになれよな。それともわざとか? わざとなのか?
ざり、と背後で靴と地面が擦れ合う音がする。自身の背後に立っていたボディーガードが後ずさりしたのだ。――おい、おれを守れよ。なに逃げようとしてやがる。
怯えられることなど日常茶飯事なのか、それともそれに興味がないのか。スパンダムの前に立っている青年の表情は変わらない。ただその瞳だけが爛々とスパンダムを見据えていた。……光のない目、人殺しの目。
「ロブ・ルッチ」
静まりかえる部屋の中。青年はたった一言、そう名乗った。
***
「昔の方が怖かったな」
不夜島、エニエス・ロビー。その指令室。
書類整理の合間、休憩がてら舐めていた小さな飴を口の中で噛み砕きながらスパンダムは言った。机の上には様々な色の飴がばらまかれている。最初からそうだったわけではもちろんなく、スパンダムがドジをして飴の入った竹籠を倒してしまったのだ。あっと驚いた拍子に熱々のコーヒーを床に落とし、それにまた驚いて飛び退いたら座っていた椅子の背もたれに頭をぶつけて目を回した。もう何も触るなと言われたのが、ほんの十分ほど前のことだ。
「……? なんの話です」
スパンダムの背後に立っていたルッチが、怪訝な声で問いかける。スパンダムが突然話し出すことはよくあることだったので、それはいつもの会話だった。
「昔の話さ。お前が初めておれと会った日」
「ああ……随分と怯えていらっしゃいましたね」
「ったりめーだろ! 殺気振りまいて挨拶してくるやつがあるかよ、未来の長官との初顔合わせだぞお前!」
スパンダムはバンバンと机を叩きながらルッチの過去の言動を抗議するが、当の本人にそれが届いた様子はない。
ルッチはいつも通り無表情だった。だが、大方その内心は『めんどくせェ』の一言で占められているのだろう、腹の立つ男だ。こんな不遜で不敬な男、弱ければとっとと処刑しているものを。あろうことかこの男、CP9史上最も強い【殺戮兵器】なのだから手に負えない。
「CP9の長官になるであろうお方が、まさかここまで弱……凡じ……普通の方だとは思いませんでしたので」
「言っちゃってる言っちゃってる! 『弱い』も『凡人』も全部言っちゃってる!」
「失礼しました」
「思ってねェよな〜! 絶対思ってねェよな〜!」
「はい」
「はいじゃないが?」
「はい」
「だからッ……あー、もういい……」
スパンダムはイライラと自身の髪を掻きむしる。この男の、ああ言えばこう言うところがスパンダムは好かなかった。兵器としてはきわめて優秀だが、それ以外の諸々を奴は母親の腹の中に置いてきたらしい。だからこその【殺戮兵器】とも言えるのだろうが。
「可愛げは昔の方があったよなァ……」
大きなため息をひとつついてスパンダムが言う。机に突っ伏し、背後のルッチに視線だけくれてやれば、やはりルッチはいつも通りの顔でスパンダムを見下ろしていた。しかしいつもと違うのは、その瞳に僅かな嘲りが浮かんでいることだ。わざとだろう、彼はやろうと思えば完璧に表情を消すことのできる優秀な諜報員なのだから。
ルッチはその瞳のまま、視線をスパンダムの机の上にばらまかれている飴に目を向ける。
「……失礼ながら、クスリでも?」
「本当に失礼な奴だな!?」
「まさか【殺戮兵器】に可愛げなどという言葉を投げかける馬k……人間がいるとは思いませんでした」
「お前それもうわざとだろ!」
あー、イライラする!
スパンダムはそう吐き捨てて、新しい飴に手を伸ばす。
「お前だけだよ、ここまでおれのことコケにして生き残ってんのはよ」
「そうですか」
「ああ、そうさ。お前だけだ」
お前だけだ、と再度呟いたスパンダムは、その体を起こして椅子の背に預けた。
「……やっぱり昔の方が怖かったなァ」
「今は違う、と?」
「んなわけねェだろ! だったらとっくの昔にお前なんか処刑されてるよ」
嫌味ったらしく言い放たれた言葉に、しかしルッチは片眉ひとつ上げずにスパンダムの言葉を待っている。つまらねェ奴だな、と一言ぼやいてスパンダムは言葉を続けた。
「人間らしくなったなァ、ってことだよ」
その言葉に、ルッチは僅かに目を見開いた。――何をもってしてその判断を?
過去、『人でなし』やら『化け物』やら『殺戮兵器』やらと呼ばれてきたことは数多あれども、『人間らしくなった』などと言われたことはなかった。むしろ失われたとさえ言われたのに。
「そんなに驚くなよ。褒めてんだぜ」
「…………初めて言われたので」
「んん……まァ、面と向かってお前に言える奴は少ないだろうな。ガキの頃から一緒にいたアイツらにとっちゃ今更な話だから、アイツらが話題にすることもねェだろうし」
「…………」
「ただ、思ってる奴は他にもいると思うぜ」
「……もしそうだとして、なにかお困りのことはありますか」
「あ? ねェよ、むしろ使いやすくなったくらいだ。CP9は殺しが認められてるとはいえ、本来の任務は諜報活動だからな、あまりにも人間離れしてっと潜入させづらいんだよ」
特に目だ、とスパンダムは言う。
「目は口ほどに物を言うってのは昔からある諺だが、昔のお前は語りすぎだ」
「……そんな人間に、よく可愛げなどという言葉を向けましたね」
「優秀なガキに『僕はちゃんとやれます』って顔されたら可愛いじゃねェか」
「【殺戮兵器】でも?」
「【殺戮兵器】でも」
「…………」
この男の感性もなかなかにぶっ飛んでいる、とルッチは思った。
「――それにしても」
そう呟きながら、スパンダムが首を傾げる。
「いつからだろうな? お前がここまで人間らしくなったの。きっかけらしいきっかけも思いつかねェ。……お前、なんか覚えてるか?」
「…………」
きっかけ。――自分が人間らしくなった、きっかけ。
そもそもルッチは、自身が人間らしくなったと言われてもあまりピンときていなかった。優しくなった覚えなどないし、生まれつき人間らしい情緒が人よりも芽生えづらい性格でもあった。今も昔も、性格に関しては大して変わっていないと思っている。だからスパンダムの言い分に納得のいかないところがある。……しかし、もしもスパンダムの言うことが本当だとするのならひとつだけ、心当たりがあった。
*
『よォ、ルッチ。ハットリは元気か? 餌やりさせろ!』
『なんで空からペンキが降ってきたんだ、ちくしょう!』
『ルッチ、お前、500人殺したんだって? スゲェな、おれの部下になるならそれくらいやれねェと困るってもんだ!』
『アッチィ! 誰だこんな熱いコーヒーを淹れたのはァ!』
『豹! お前、豹になんのか! わはは、スゲェな! ちょっとここで化けてみろよ!』
『お前はなんにも間違っちゃいねェさ』
『グワーッ! 間違えてインク飲んじまった! うえッ! ルッチ、ルッチーーーー!!』
『まーたお偉いさんが何か言ってきやがったのか。気にすんなよ、お前の正義をおれは肯定する。犠牲なき正義も犠牲なき秩序も有り得ねェんだ』
『お前はおれを裏切るなよ、ルッチ。お前がそう在る限り、おれもお前を裏切らねェ。……多分な』
*
「――……あなたが」
「あ?」
「あなたが、あまりにも煩いので」
「……あァ? なんだお前急に喧嘩売ってきやがって」
部下からの突然の罵倒にカチンときたスパンダムは勢いよく立ち上がる。
「――まァ、そのせいです」
「いや、どのせいだよ。色々と足りてないだろ、説明が!」
つーか人のせいにすんな! おれは関係ねェだろうが!
バンバンと机を叩いて抗議の意を示すスパンダムに、ルッチは口を閉ざした。ご丁寧に顔まで背けている。絶対にもう何も言わないという固い意思表示だった。
「お前な、上司を急に罵倒しておいてその態度が許されるとでも――ッ、うぐッ!?」
「!」
このまましばらくの間、スパンダムがわあわあと喚き散らすのだろうとルッチがその声を半ば聞き流していたそのとき。突然、スパンダムが目を見開き喉を押さえて蹲った。
ドンドンと自身の胸を叩き苦しそうに喘ぐスパンダムの姿に、何事かとルッチはその側に近寄ったのだが。
「……うッ、がッ……あッ、あめ……ッ!」
「……」
「……ァ……ゥ、ッチ……!」
「…………」
子供よろしく飴を喉に詰まらせ、涙目になりながら手を伸ばし助けを求めてくるCP9長官の姿に、ルッチはそれはそれは大きなため息をついた。――これが『闇の正義』を行使するCP9の日常などと、間違っても故郷の子供たちには知られたくないものだ。
人間なのだ、誰も彼も。