髪をひと束
「お前、ガキの頃はなんであんな髪だったんだ?」
ドライヤーを片手にルッチの髪を乾かしながら、スパンダムが問いかけた。――スパンダムが、ルッチの髪を、乾かしながら。
逆ならまだ分かる。部下が上司に命じられて上司の髪を乾かしてやるというのは、よくある話ではないが考えられない話でもない。少なくともスパンダムは気まぐれにそういうことを命じることがあった。
ではこの状況はどういうことか。――結局これも、スパンダムのいつもの気まぐれだった。
***
時は十分ほど前に遡る。ルッチが提出した書類について確認したいことがありスパンダムは彼に電話をかけたのだが、何故だかルッチが電話に出ない。どれだけコール数が嵩もうとも出ない。電伝虫はプルプルプル、としか言わない。
上司の電話を無視するたァいい度胸だと、スパンダムは書類片手にルッチの部屋に突撃した。ルッチに何かがあったなどとは思いもしない。そんなことができる存在はこのエニエス・ロビーにはいないし、そんなことをされるような存在でもないのだ、ロブ・ルッチという男は。
何か危険があったわけでもないのなら、扉を開けることを躊躇う必要もない。ノックもせずに勢いよく目の前の扉を開ければ、果たしてそこにはロブ・ルッチがいた。
上裸で、濡れた髪をタオルで拭きながらそこにいた。
「あ!? お前ッ、服着ろ! 上司の前だぞ!」
「ノックをしていただけますと大変助かります」
「おれが来てるのは音で分かってたよな? なのに身なりを整えねェお前が悪い!」
「…………」
ビシ、と書類を持っている方の手でスパンダムがルッチを指さした。本当に自分は何も悪くないと思っている顔だった。
ノックさえすれば全て解決した話だというのに、なんともまァ、理不尽な上司もいたものだとルッチは思う。そしてこうした理不尽はまだ可愛い方だと知っているので、彼はそれ以上何も言わずにソファーにあらかじめ用意してあったシャツを羽織りスパンダムと向かい合った。
「それで、なにかご用ですか」
「あ? あァ、この書類。聞きてェことがあるんだがな、テメェが電話に出ねェから部屋まで来てやったんだ」
「それはどうもありがとうございます。……それで、どこですか」
「ここだよここ。これな――って濡れた髪で近付くんじゃねェ! 濡れるだろ!」
「では髪を乾かしてから部屋まで伺いますので、お戻りください」
「わざわざおれが来てやったんだぞ! お前の部屋まで!」
「……では、まずは髪を乾かしますのでそのソファーでお待ちを――」
「おう、早くしろ! おれは忙しいんだからな!」
「……」
「はーやーくー!」
「…………」
ぼす、とソファーに勢いよく座り子供のように駄々をこねるスパンダムの姿に、ルッチの額に青筋が浮かぶ。――忙しいなら先に部屋に戻って仕事をしていろ、この馬鹿長官。
ルッチはそう言いたかったが、幼少期から鍛えてきた鋼の心で口を閉ざした。今代のCP9に殊更必要なものである。
部屋にスパンダムを残して、ルッチは洗面台へと向かう。水が滴り落ちない程度に乾かして、さっさと要件を終えてしまおう。そう思い、普段よりも幾分か雑に髪を乾かしていたのだが。
「――なァ、おれが乾かしてやろうか? ルッチ」
まだほんの数分しか経っていないにもかかわらず、スパンダムが扉からひょこっと顔を覗かせた。鏡越しに、輝く瞳と目が合った。――また長官の気まぐれか。
ルッチは深いため息を吐いた。
「あともう少しですから」
「いーや、おれが乾かす。ほら、ドライヤー持ってこい!」
「…………」
ここで言い合うのと、渋々ながらでも従うのと。どちらの方がより短い時間でこの空間から解放されるか――そんなこと、考えるまでもなかった。
ルッチはこれみよがしに大きなため息をもうひとつ吐いて、ドライヤーを手に持ち部屋へと戻る。一足先にソファーへと戻っていたスパンダムは、ほらここだ、と言わんばかりにソファーを叩いていた。
***
「あんな髪……ああ、ストレートにしていたことですか?」
「そうそう。わざわざ手間隙かけてんなと思ってたんだ」
スパンダムはルッチの背後に座り、彼の髪を乾かしながら言う。目の前にある黒髪は緩やかにウェーブがかかっており、それが水に濡れてさらにうねってスパンダムの視界いっぱいに広がっていた。
しかし昔はそうではなかった、とスパンダムは記憶している。
昔といっても、それは十代の頃に限定される。グアンハオにいた頃は今と変わらぬ髪だったことは写真で確認済みだ。何故か十代の頃――CP9に入った頃には既に、その髪型は形の整えられたストレートになっていた。
そして今はまた、グアンハオにいた頃のそれに戻っている。よくよく考えてみればおかしなことだ。少なくともスパンダムが認識しているロブ・ルッチという人間は、ファッションというジャンルに興味がない。元々センスはある方なのでいちいち学ばなくともなんとかなるというのもあるし、興味がなくても問題がないほど顔とスタイルが整っているというのもある。それにもかかわらず、昔のルッチはきちんと髪を整えていた。
「意味あったのか? あれ」
「一応。六式を修めていたとはいえ今と比べれば格段に未熟でしたから、髪が長いと色々と不便になることが予想されましたので」
「髪引っ掴まれたりとかか?」
「あとは空気抵抗もありますね」
「んなもん、誤差の範囲――あ、お前自身が速いからそうでもねェのか」
「それに、くせ毛だと何かに引っかかることも多くて」
「あー……そういやくせ毛の女がよく自分の服のボタンに髪引っ掛けてたな……」
「……そうですね」
ルッチは『あなたも時おりシャツの袖口のボタンに髪を引っ掛けて喚いてるじゃないですか』と思ったが、言わないでおくことにした。
「任務中に今言ったようなことが起きたことはありませんが、可能性は今よりもありましたから。念には念を入れて髪を整えていました」
「今は?」
「戦闘中のデメリットよりも日々の手入れというデメリットの方が上回りましたのでやめました」
「ああ、うん。強くなったようでなによりだ」
呆れた声でそう言うスパンダムの手つきは存外優しく、やたらめったら髪を引っかき回すようなことはなかった。かといって髪を痛めないようにという配慮のある乾かし方でもなかったが、少なくとも適当に乾かしているわけではないことがルッチにも分かった。変なところでまともな対応をする男なのだ、スパンダムという人間は。
「あの髪型も好きだったけどなァ」
スパンダムの呟きは、ドライヤーの音にかき消されることなくルッチの耳へと届く。
そして会話は不自然に途切れた。スパンダムはルッチの言葉を待っているようだったが、とりあえずルッチはそれを無視することにした。
「なーなー。あの髪型もおれ、好きだったんだよ」
ルッチが無視していることに気付いたらしいスパンダムが、追い打ちをかけるように言葉を続ける。スパンダムが求めている言葉がルッチには分かっていたので、大きくため息をつきながら彼は答えた。
「……しませんよ」
「おいおい、そこは『お望みとあらばまた戻しましょうか』って聞くとこだろ? おれの部下なのに気が利かねェな」
「あなたの部下ですからね」
「ストレートに喧嘩売ってくんな」
ぺし、とスパンダムが軽くルッチの頭を叩いた、そのときだ。窓際のテーブルに置かれていた電伝虫がプルプルと鳴いた。
「鳴ってんぞ」
「そのようですね。立ち上がっても?」
「おう」
スパンダムがドライヤーの電源を切る。ルッチは電伝虫が置かれているテーブルまでスタスタと歩いていき、それを鳴り響かせたまま戻ってきた。
「そこで出てやれよ」
「後でかけ直すよう伝えるだけなので、このまま乾かしてもらってもいいですか」
「あァ? 仕方ねェなァ」
渋々といった顔をしてスパンダムがドライヤーの電源を入れ直した。どうやら長官殿の気まぐれはまだ続くらしい。
正直なところ、この辺りでスパンダムが飽きるのではないかとルッチは考えていたのだが、どうやらそうはならなかったらしい。――思っていたよりも長いな、今回の気まぐれは。
ルッチがソファーに座り直す。スパンダムが再びルッチの髪を乾かし始めた。濡れた髪で少し冷えていた肩が再び温かくなる。
ルッチが受話器をとれば、それはガチャ、と鳴いた。
「こちらロブ・ルッチ」
『失礼、今いいかしら』
「カリファか。今は取り込み中だ、後にしろ」
『髪を乾かしながらでも聞ける話よ』
「長官殿がお越しだ」
『……あなた、髪を乾かしながら長官と話してるの?』
「その長官殿が乾かしてくださっている」
『…………』
電伝虫が露骨に嫌そうな顔をした。
『……こういう役回り、いつもはカクなんだけど』
「ギャンブルでもしに行けばどうだ、当たるかもしれんぞ」
『結構。また後でかけ直すわ。……いえ、あなたからかけ直してちょうだい。馬に蹴られるなんてごめんだもの』
「は? 馬?」
『じゃあね。重ねて言うけど、私からはかけないわよ、電話』
有無を言わさず電話は切られた。――十中八九からかっているだけだろうが、カリファは時折、ルッチとスパンダムとの関係を誤解しているかのような発言をする。
まァ、いずれは誤解ではなく事実にしてやりたいとルッチは思っているが、現状それが訪れる未来は見えない。残念なことに。
「カリファめ、嫌な顔しやがって。失礼な奴だと思わねェか?」
そう言ってスパンダムがルッチの髪をぐい、と引っ張った。どうもカリファの反応がお気に召さなかったらしい。
「八つ当たりはやめてください」
「八つ当たりじゃねェし、正当な抗議だし」
「どこに正当性が?」
「お前はCP9実行班のリーダーだろ、仲間の失態の責任は負えよ」
「…………」
お前は時々部下に責任を押し付けるくせに。そう思いはしたが、それを言ってしまうと面倒な論争が始まってしまうので、やはりルッチは黙ることにした。
「あの髪が好きだったってのはホントだぜ」
スパンダムはそう言って、ドライヤーの電源を切る。そして乾かし終えたルッチの髪を満足気にふわふわと触り始めた。
ふんふんと上機嫌に鼻歌を歌いながら、スパンダムはルッチの髪を弄り回す。髪を引っ張ってみたり、自身の手をヘアゴム代わりにして髪をひとまとめにしてみたり。玩具のようにルッチの髪を弄びながら、スパンダムは言葉を続けた。
「そして今の理由を聞いてさらにな」
「……といいますと」
「『闇の正義』を遂行するためなら髪型さえもそれに準ずるってのがな、おれは好きだぜ」
「……そうですか」
スパンダムは強い者が好きなのだとルッチは知っている。それが武力であれ権力であれ。そして世界政府の正義に則る者も好きなのだと知っている。そこに性格の善し悪しは問われない。
だからスパンダムは“ロブ・ルッチ”が好きなのだろう、部下として。それ以上はないし、少なくとも今はそれ以下もない。出会って数年、己の中の感情に整理がつきつつあり、その感情の名をなんというのかを薄々感づきつつあるルッチからしてみれば、これほど遠い距離もなかった。
そしてこれほど近い距離もなかった。
己が【殺戮兵器】である限り、スパンダムはロブ・ルッチを手放さないだろう。世界政府の正義に忠実な、CP9史上最も強い男を手放すようなことをスパンダムはしない。
ロブ・ルッチが強く在り続けようとする一番の理由は『正義』のためであり、それが覆ることは絶対にないが……決してそれだけではないのだ。
今はこれでいい。――今は。
けれど、いずれは。
髪をひと束