在りし日の、
甘やかで穏やかな

 バレンタイン。――その当日に贈られてきた、匿名のチョコレート。
 それを前にして、“殺し屋”ロブ・ルッチは、自室で頭を抱えていた。


***


 宛名など無くても、自ずと誰が贈ったものなのかは分かる。――分かるように、贈ってきている。
 梱包に使用されている材料ひとつ、リボンの結び方ひとつ、入れ物に使用された箱の、色合いひとつ。――総合すれば、どこの誰から贈られてきたものなのかが分かるように、贈られてきている。
 そもそもCP0に在職している人間にプレゼントを贈ることができるというだけで、数は絞られるのだ。
 考えるだけで、どんな任務を前にしても痛むことのないルッチの胃がキリキリと痛む。
 これが自分の見てくれを気に入っただけの、甘酸っぱい初恋のような可愛い贈り物であれば、ルッチもここまで悩まない。エニエス・ロビーにいたときは、そこで働く女性職員から山のように贈られてきていた。

 だが、今は違う。
 ルッチがここまで悩む理由はひとえに、返答ひとつで彼の首が飛びかねないからだ。

 このチョコレートがルッチに届けられるまでに、一体どれだけの謀略が世界政府の内部を渦巻いていたのか――この地位にいれば、否が応でも耳に届く。
 たった一つだけ、贈られてきたこのチョコレート。
 数多の権力闘争を勝ち残った政府高官の、たった一人の愛娘からの贈り物だった。下手なことをすれば、どうなるかなど分かりきっている。
 CP0は天竜人の命令でしか動かない。だからといって、彼らの処遇が天竜人だけに一任されているわけではない。あくまでもCP0は、『世界政府の』諜報機関なのだ。所有権は世界政府にある。
 何度目かも分からないため息が、ルッチの口から零れる。――おれは。
(こんなことを考えるために、おれはここに居るんじゃない――)
 それにこれ以外にも、考えなければならないことがまだあるのだ。朝から既に連絡を受けており、それについてもルッチは考えなければならない。
 ままならぬ現状に、ルッチが自分の唇を噛みしめた、そのときだった。
 こんこんと、扉を叩く軽快な音が部屋に響いた。

「ルッチ、今いいかしら?」

 その声と同時に、部屋の扉が開かれる。

「あら、いつも以上に怖い顔してるわね……何かあったの?」
「――ステューシー」

 ルッチの返答も聞かずに部屋の中へと入ってきたステューシーに、ルッチは俯かせていた顔を上げた。

「せめて返事は聞いてから入ってこい」
「いいじゃないの、私とあなたの仲でしょう?」
「ただの同僚だな、返事をするまで入ってくるな」
「冷たい人ですこと。――あら?」

 ルッチの言葉を右から左へ聞き流しながら、ステューシーは扉を閉める。
 そしてルッチの元へと歩いていた彼女だったが、不意にその足を止めた。――その視線の先には、ルッチの頭を悩ませている箱がある。
 彼女はそれが一体何なのか、すぐに分かったらしい。ひとつため息を吐いて、彼女は再び歩き出し、ルッチの横に立った。

「色男も大変ねえ……」

 そう呟いて、彼女はなんの躊躇いもなくチョコレートを手に取った。そしてそれをつぶさに観察をして、彼女にしては珍しく、本当に困った顔をした。

「これはまた……面倒なところから贈られてきたのね」
「からかいに来たなら、さっさと出ていけ。……おれは今、お前の相手をしている暇はない」
「分かってるわよ。――私も“これ”の対処について考えてるときにからかいに来られたら、その人のこと、殺しちゃいそうだもの」

 ステューシーの声にわずかながらも混ざりこんだ殺気に気付いて、ルッチは目を見張る。――彼女が感情を言葉にのせるとは、珍しいこともあるものだ。

「お前も贈られてきたことがあるのか」
「何かに託けて贈られてくるわね。一年に一回のイベントごとの日は特に」
「……今日もか」
「今日もよ。――本当に、困るのよね、こういうの」

 海より深いため息を吐いて、ステューシーはチョコレートの箱をテーブルへと戻し、ルッチの向かいにある椅子に腰を下ろした。

「私たちがこれに応えると、本当に思ってるのかしら。それとも貴族様の気まぐれなお遊び? 案外、ただ親バカなだけなのかもしれないわね。――どれであっても、迷惑なことに変わりはないけど」
「――どう断るか、お前はもう決めたのか?」
「基本的には、いつも同じ答えを返してるわよ。さすがに相手の地位によっては返答を変えないといけない年もあるけど……今年はいつもの答えで問題なさそうだから、そうするつもり」
「…………」
「ちなみに女性専用の断り文句みたいなものだから、あなたには教えても意味ないと思うわ。ごめんなさいね」
「教えてほしいなんて言ってないだろう」
「でもこの分だと、あなた、ずっと困ってるんでしょう?」
「―――」
「朝からずっと。――私は、なんの用もなくここに来たわけじゃないのよ」

 そっと目の前にあるチョコレートの箱を撫でながら、ステューシーは言う。

「カクが心配してたわ、『朝からルッチの様子がおかしい』って。……でもあの子、今日は任務でしょう? ルッチと話したいけどそんな時間がないし、そもそもあなたが素直に口を開くとも思えないし――そこで、私に話が回ってきたの」
「なぜお前に?」
「現に今、こうしてあなたと話せてるじゃない? それが答えよ」

 ふふ、と得意げに笑ってみせるステューシーに、ルッチはひどく苦い顔をする。――ノックはしても返答は待たずに部屋に押し入り、今は当たり前のように目の前に座っている彼女。
 女性の諜報員だからか、それとも彼女の元来の性格ゆえか、はたまたその両方か。彼女は相手を手玉にとるのがとても上手い。場の雰囲気を自分のペースに持ち込むことに長けている。
 その結果が、まさしく今の状況だった。

「結果論にはなるけど、今回は私に話が回ってきて正解だったわね。あなたの幼なじみの子たちは、まだ答え方が分からないだろうし……そうだわ、幼なじみといえば――」

 自分の頬に手をあてて、ステューシーが眉根を寄せる。

「この分だと、あの子――カリファも困ってるんじゃないかしら? あとであの子の様子も見に行かないといけないわね」
「……既に救援要請を受けている」
「カリファから?」
「ああ」
「あらあら……あなたが難しい顔をしていたのは、このチョコレートのことだけじゃなかったのね」

 そう。ルッチが頭を悩ませていたのは、なにも自分宛てのチョコレートに関することだけではなかった。幼なじみであるカリファからも、同様の件で朝から相談を受けていたのだ。
 エニエス・ロビーにいた頃から、贈られてくるチョコレートやらプレゼントやらの処分に悩んできた者同士である。今回の件について、彼女が同性であるステューシーではなくルッチに相談を持ちかけたのも不思議ではない。ルッチも、自分にこの贈り物が届いたことに気付いた時点で、カリファからの連絡がくることは予想していた。連絡がなければこちらから連絡をするつもりでさえいた。――存在が秘匿されていたCP9時代とは、何もかもが違うのだ。
 あの頃は、存在が秘匿されているがゆえの、ある種の“自由”があった。断ったとしても問題になりようがなかった。『ロブ・ルッチに告白したが断られた』と他者に話そうものなら、その人物は機密情報の漏洩を理由に、翌日には姿を消すことになっていただろう。
 だが、今は違う。――それが、これほど面倒なことになろうとは。面倒になること自体は覚悟していたが、こういった面倒は想定していなかった。
 ルッチは先ほどよりもずっと難しい顔をして、シルクハットを深く被る。考え込むときの彼の癖のようなものだった。
 そんなルッチの様子を、ステューシーは何も言わずに、じっと眺めていた。――まるで、観察するように。
 そして彼女は、何事かに満足したとでもいうように、わずかにその口角を上げる。

「――あなたも、人間なのね」
「……なんだ、急に」
「何もないわ。――あなたでも、ちゃんと悩むことがあるのね、と思っただけよ」

 ふふ、と笑うその顔に、ルッチは幾許かの違和感を覚えた。
 いつもの笑顔とは何かが異なるそれにルッチが問いかけるよりも早く、ステューシーが口を開いた。

「私も考えてあげる」
「――は?」
「一緒に考えてあげる、って言ってるのよ。手詰まりなんでしょう?」

 困った子ね、と呟くステューシーの顔は、まるで幼子をあやす母親のようだ。

「こういうことに関しては、私は先輩も先輩よ? 何かの役には立てると思うわ」
「…………」
「それに乙女心はね、乙女に聞くのが一番なのよ? 意地を張らずに助けを求めなさいな。……あなたのそういうところ、みんなが心配してるわ」

 ――いつものステューシーが、そこにいる。
 先ほど覚えた違和感は気のせいか――そう考えるほど、ルッチは楽観的な性格ではない。
 しかし、今の問題はステューシーではなく、ルッチやカリファの首を飛ばしかねない爆弾――目の前に置かれている、チョコレートであった。
 そしてその解決策を一番よく知っているであろう存在が、すぐ目の前にいる。そのうえ彼女がルッチやカリファに協力的ときたなら、それを利用しない手はない。
 ただ、ステューシーにしてやられる形になることがどうにも癪で――ルッチは甘噛み程度に、一矢報いることにした。
 わざとらしく首を傾げ、これまたわざとらしく怪訝な顔をしてみせて、ルッチは口を開く。

「…………『乙女』?」
「“指銃”♡」
「“鉄塊”」


在りし日の、甘やかで穏やかな

あの時間は、彼女の優しさか。
それとも、ただの――